修証義 現代語 訳 意味 仏道 道元禅 曹洞宗
![]() 澤木興道老師 筆者絵 |
第一章 (総序) 生まれるとか生きるとか死ぬとか命は計り知れないけど 命の不思議をわかりたいんだね 自分ひとりがと思っていたら すごく寂しいけれど 僕も大きなたくさんあるうちの一つの命なんだと気がついたら 眠るような最後でいいと思えるね それが あきらめ なんだね それが あきらか なんだね 何かや誰かを嫌がったり 焦って何かを願ったり どうしようもない 僕 をやめて 最後ははじまりからのプロセスなんだと知ろうよ 人に生まれるってことはすごく稀なことだね 命のしくみを理解するなんて もっと 稀なことだね 今 僕ら ありがたいことにこの地上に生を受けた それだけじゃない 命のしくみに出合って 喜んで学んでるのだね 生き死にのなかで善い心で生きるってことはほんとイイコトなんだよね 100年とない短い時間なんだからさ 善い心で暮らしたいもんだよね 時間は止まってはくれないね 道の草から地面に落ちる 露みたいなもんさ 命はね 命が無くなれば ぬけがらはもはや完全な僕とはいわないんだな 命は光陰に移されてすぐにまたどっかで 何かになるんだろうね 死んだら血の気がひいて青くなるよね 何かを誰かに尋ねられたって もう応えることが出来ないよね すごく思うよ もう逢えない 命は大事だね 死ぬってことにはさ、この世で例え国王という身分の人だろうと 人の上で指図してる人だろうと 人の下で従ってる人だろうと あるいは 僕や妻だって 子供だって あるいは 宝や薬がいくらあったって おかまいなしに 突然にやってくるもんだ そん時は ただ一人で あの世に行くんだ 誰もがね 生きるってのは 善くも悪くも どう生きるかってのは 当たり前に自分次第なんだね 今生きてることには かならず こうなった原因があっての結果なんだから 生きてられる ってことを大切に思うんなら 報復を考えないやつや 過去現在から学び未来を思えないやつや 善悪をわきまえないで すき放題やってるやつとは群れないことだね 僕の意向もお構いなしで自然や歴史はでかいうねりの中で動いてる 悪いことしたやつは 必ず 生きたまま地獄に落ちて苦しむもんだ 善いことを最後までやる人は、必ずむくわれて生きたまま天国の心境を味わえるものさ お金を持ってようと 持っていまいと 身体が強かろうと 弱かろうと 関係なくにね そんな因果なんてあるもんか と思っていたら 体調もよくならないし 家族も組織も 当たり前にうまいこといかないね まして 因果を知らないってことは 先祖も大切にしないんだから 親戚や氏族の助けも あるいはそれ以上の存在の助けも ないわけだね 善悪の報いには3つあるというよ 一つ目は今生きてる中で受ける報い 二つ目はそのあと、そうだね子供達が受ける報い 三つ目はそれ以降、そうだね子孫が受ける報いだ 生命とは何かを研究した人たちの生きたレポートを得るためには その最初から この三時のことを徹底してないといけないね じゃなかったら 大間違いで 正しいことが見れなくなる ただ 正しいことが見えなくなるだけじゃない 悪いやつらにコントロールされて ほんと長い時間苦しむことになる 自分の身体が 二つも三つもあるわけじゃないんだからさ 悪いことやったり コントロールされたりしないことだね 悪いことしながら 悪いことじゃないと思い それをやったことに関して 報復がないなんて自分勝手な考えをして 地獄に落ちてる場合ではないよ |
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第二章 懺悔滅罪 罪や過ちを洗い清めますよ ※仏様 大いなる命・天の父 ※祖師 生命の法を継いできた先生 ※菩提 生命の保護と発展に寄与する ※菩提心 生命の保護と発展に寄与する心 ※菩薩 生命の保護と発展に寄与する貴い生命 ※慈恩 母なる命、無償の愛への恩 ※報恩 父なる命への恩に報いること 仏様や祖師の先生方は、余りにもこの世が酷いので、堪りかねて慈しみの 心をもって人々をあわれみ、仏門をお開きになったのだね。 これは、生きとし生けるすべての命を仏道に目覚めることによって救うという ことなのだね。 人であれ神であれ、かの三時の報いを悪行のあとに受けるのだといえども 懺悔するのであれば、重き罪は軽減され、またすっかり洗い落としてくれる。 そのように綺麗になりたければ、誠意ある心で、信心をひとつにたもって、仏様の前で(あるいは現仏=相手の前で)自分の過ちを認め心から謝罪することですよ。 このようにするとき、相手の仏様に懺悔の気持ちが届いて、相手の気持ちだけでなく、自分の気持ちも綺麗に浄化されますよ。 この効果は、すばらしく、そして差し障りも無く自由自在であり、混じりけも無い 純粋な信心と、励み、一生懸命生きていく不退の心を生長させてくれますよ。 お互いに相手の仏様を拝み、綺麗な心で向かい合うとき、そこに自他という心の 壁はなくなり、争いは無くなります。 そのご利益は目に見えて、有情も非常も、生物も無生物も全てに良い効果を与 えるのですよ。 その醍醐味というか意味のすごさは、例え僕が作ってきた過去の悪事が多く重なって、仏道を学ぶことに障害となったとしても、仏道を生きた仏様そして先輩方 が、あなたや僕を憐れんで、悪行による障害を解き放ち、学道から障害を消し去 ってくれて、そのお徳は仏教徒だけでなく、全ての全世界に満ち満ちてわたり広 がるのだよ。 哀しいことがあったら僕に伝えてくださいよ。 仏様は昔の方だけども、確かに僕らが今、仏様の使命を受けていますよ。 僕が昔から作ってきた数々の悪業は、皆知らず知らずのうちに重ねてきた貪り や怒りや愚かさによって、身と口と心からの生みものです。 僕は今、この僕の一切を全て仏様に懺悔します。 このように身も心も懺悔すれば、必ず仏様から助けを賜ります。 心を洗い清め、綺麗な心にするんだ、なっていくぞ、今すぐなるぞと決意して、 身体で仏様への敬意を表し、口に全ての罪を仏様に告白し、本気でとことん懺悔 して、懺悔の心は仏様の力をいただき、罪の根本から金をも溶かしてしまうぐら いに全くなくしてしまうのですよ。 | |
第三章 受戒入位 仏様の戒を受けて仏様の仲間入りですよ 深く仏法僧の三宝を敬い奉りますよ 仏とは、素直な心になることですよ 法とは、きまりを守ることですよ 僧とは、仲良く暮らすことですよ どんな生き物に生まれて来ようとも、三宝を大事として相手を敬い自分の損得を 勘定に入れないで相手に尽くすという心を持ちましょう 西方はじまりの地から東の終わりの地まで仏様が脈々と伝わるところでは必ず 三宝を慕って敬う風潮が根付いているものです もし、福うすく徳の少ないような正しい仏道に目覚めない人々は、三宝の文字だ けでも奉ることなく喧嘩や訴訟や不満の絶えることがない。 どう言えば、そのような人たちが三宝を得ることができるのでしょうか いたずらに月日を重ね、災いを蒙る事を怖れおののきながら、誤ったイカサマな人間の作り上げた神などを信仰したりしている場合ではありませんよ 人から金品物資を貪るためだけのそんなものを信仰していたのでは苦しみは増すだけですよ はやく、自分自身が人生の主人公であることに目覚めて、自分自身を頼りとして 仏法僧の三宝を大事に、苦しみを解し脱するだけでなく、他の人もみんな幸せに するべしですよ その三宝とは第一にはやっぱり懺悔の心、浄心が大事ですよ お釈迦様が居た頃も、お亡くなりになった後も変わりなく 合掌して、頭を下げて腰を低くして口に唱えますよ 南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧 仏様は大先生ですよ、素直な気持ちでいつも心で仏様に質問してみてください。 「私はこれで正しいですか、どのようにすれば良い結果になりますか。」 法は良いお薬ですよ、きまりはみんなが生きていくために必要なんですよ。 あなたや僕が困った時も、お薬のように効くものなんですよ大事ですよ 僧は勝友ですよ、友達が大事ですよ。困難があっても仲間がいれば勝つことが できますよ友達は大事ですよ。 仏様のお弟子になるということは必ずこの三つの帰依が基本となるのですよ。 その後どんな戒を受けるに当たっても、必ずこの基本を体得していれば キャッチボールのように正確に効果やお徳が自分に帰って来ますよ。 どんな人であれ命も皆そのようにして互いにとけあえることができますよ。 まさしくそのこと、そのものが、仏道ですよ。 仏道はそういう意味ですよ、集団や団体をなして仏法というのではないですよ。 すべて仏様の教えのことですよ、一部の人間の我侭ではないのですよ 結局、生命が全てが維持される為の教えなのですよ すでに三宝に帰依し奉るすべての人は、ありとあらゆる命と場所に増長して、 必ず功徳を積み重ねて、この上ない正しい仏の智慧を完成しますよ。 三帰のお徳の効果はそれはもう最も尊く、最上のもので、さらに奥が深すぎて 計り知れるものではないということは、お釈迦様が人生やお経の中ですでに証 明しておられますよ。 生きとしいける皆の信じることのできることですよ 信じることができれば、次には三聚浄戒を受けることができます 第一摂律儀戒・・・・清浄の心を持って一切の不善を為さないと 誓い奉ること。 第二摂善法戒・・・・清浄の心を持って一切の善行に励むことを 誓い奉ること。 第三摂衆生戒・・・・清浄の心を持って永く世のために尽くすことを 誓い奉ること。 これを信じることができれば、次には十重禁戒を受けることができます 第一不殺生戒・・・・命をことさらに殺さざるべし 第二不偸盗戒・・・・与えられざるものを手にすること無かるべし 第三不邪淫戒・・・・道ならざる愛欲を犯すこと無かるべし 第四不妄語戒・・・・偽りの言葉を口にすること無かるべし 第五不酤酒戒・・・・酒に溺れて生業を怠ること無かるべし 第六不説過戒・・・・他人の過ちを責め立てる事無かるべし 第七不自讃毀佗戒・・・・己を誇り人を傷つける事無かるべし 第八不慳法財戒・・・・物でも心でも施すことを惜しむこと無かるべし 第九不瞋恚戒・・・・怒りに燃えて自らを失う事無かるべし 第十不謗三宝戒・・・・仏法僧の三宝をそしり、不信の念を起こす無かるべし これを受けて、三帰三聚浄戒、十重禁戒は、全ての仏様の受け持つものですよ。 受戒するということは、過去現在未来の仏様のこの上ない正しい仏様の智慧、まさに金剛石のように壊れることが無いすなわち仏様の効果を証明するものですよ。 では、誰のためにこれがあるのでしょうか。 お釈迦様は明らかに世の全ての命のためにこれを示されましたよ。 あらゆる命が仏様の戒を受けることは、それだけで即座にもろもろの仏様との 格式に並ぶということです。 大いなるお釈迦様と変わりなくなるということですよ まさしく、あなたや僕が仏様の大切な子供になるのです 仏様の戒と法を受けとどめ、常に保つのですよ。 いろいろ差別のある具体的な生き方の中にあってことさらに知っても感ずる思いもないですよ。誰も何を言おうが知ったことではないですよ。 せわしなく世の中群れをなして長きに渡って日々の起居動静の中で仏様の戒と 法を受けて生きていますよ。 いろいろと思慮したり、すること、なすことに、かげやシコリを持つことはないですよ。 なぜなら、いつどこでも、土は草木を育て、草木は土の肥やしとなり、垣根・壁・瓦・小石のはてまですべてがみなそれぞれに生かし生かされ、天に地にまさしく仏様の仕事働きをしていますね。 吹く風、流れる水の恩恵に預かったすべての命が、 みんな計り知れない不思議な仏様の力に知らず知らずのうちに助けられて、 このことこそが、もったいの無い、まさしく親の親ともいうべきほどの絶大な真実、 なんだかんだを言う前に、すでに証明された大自然の恩恵によって、あなたも僕も全ての命が存在するという圧倒的な事実なんですね。 ほら、たくらみもなく計らいの無い自然の働き、その力。 僕らは何とちっぽけであったことか。 僕らは見返りばかり求めていないか、自然は全てを知っている。 僕らも自然のように、自然に道を求め、世の人を救おうという願い心を持とう。 | |
![]() 本来のわたし、ありのままの命と成る
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第四章 発願利生 皆が生かされて皆に利のあるようにしようという請願の心を起そう 菩提心を発すということは、自分が現時点たった今未熟であっても、全ての命を 争いの無い、安心して暮らせる状態に導くことを決意して生活をその方向性に向けて営むということですよ。 在家であっても出家であっても、神であれ、人間であれ、貧乏であれ、裕福であれ、病気であれ、健康であれ、苦であろうと、楽であろうと、早く菩提心を発すべきですよ。そうしないと本当の幸せはやってこないですよ。 どんな生い立ち、どんな職業、どんな顔立ちの人であれ、その心を発せば、そのままで全ての生命の大先生なのですよ。 例え幼児であっても、その心を発せばお坊様の先生なのですよ 生きとし生ける全ての命の大いなる父母なのですよ。 男女性別を論じてはいけませんよ、力は腕力だけではないですよ、男子も女子も それぞれに力があるのですよ これが、仏道の計り知れない法則ですよ。 男女はそれぞれ性は違えども力をあわせるべき存在ですよ その力は世界を創る力なのですよ もし、菩提心を発したのに、地獄に落ちたというのであれば、その輪転もすなわち菩提の行いであり願いであるから無駄ではないのですよ。 たとえ今までの時期を空しく過ごしたとしても生きている間に急いで発願しましょう。 たとえ、もう仏様になったのだと、自分はこれで一人前だと思ったとしても、なお 周りを見て、みんなが仏様になれるように、何度でも説いて歩こう あるいは衆生を彼岸に渡すのにものすごい時間を要して遂に自分が仏様になれなかったとしても、だれかがまさしく助かったでしょう。 それを、衆生を利益するといいますよ りえきじゃなくて、りやくする、ですよ。 この利益には4枚の般若(眼に見える働き)がありますよ。 一つには布施 二つには愛語 三つには利行 四つには同事 これはすなわち菩薩の願いであり行いですよ。 その布施というのは貪ってはなりませんよ、個人の私物ではありませんよ そういっても布施は拒むことはないのですよ 物や金額の多い少ないというのを勘定に入れてはいけませんよ、 誰に対しても、お布施をした、そのことが尊いのですよ。 一句一偈の法をも布施ですよ、布施しましょう これは私にとっても貴方にとっても善き種まきなのですよ たとえ一銭一草の財産だとしても喜んで布施しましょう この世もあの世も、この国もあの国も、善い根になりますよ 仏法も財産ですよ、財産も仏法と他なりませんよ 違うものではありませんよ、世に無駄なもの汚いものがありませんよ ただ、あなたも僕も貰ったものだといって貪らずに、貰ったら還って 世の皆のために今度は逆に布施していきましょう 何も無くて困ってる人を見たら、例えば舟を置き橋を渡すのも布施行そのもの なのですよ。 今世の中の商売や産業というものだって布施に他ならないのですよ 愛語というのは、今の時代や生きる人々、すべての命と向き合うとき まず、世の苦しむ人の哀しみに心をかたむけて、慈愛の心を発し、 それぞれの気持ちに応じた労いと慈悲の言葉をかけてさしあげることです。 世のみんなの痛み、哀しみ、苦しみを労い、慈しみ自らの生活苦のことも 越えて来たことも励ましのために言語することは愛語といいます 善いこと徳のあることは誓って誉めてあげましょう 善くないこと徳の無いことは誓ってともに悲しみましょう 悪い敵を降参させ、賢い人々を結ぶことも愛語が基本ですよ 相手から本人から愛語を聞くことは顔もほぐれますね、心も楽しくなりますよ 向かわずしも、遠くで愛語を聞くことは肝や魂、心に響きますね。 愛語は国王の心ですらひき廻らしますよ、実に世の中を幸せなようにして めぐらしむける力がある素晴らしいものだということを学んでいきましょうよ 利行というのは、貴賎をいとわず、どんな人にも利益の善巧を廻らすことですよ 雀に恩をかせたとて、たとえ看病に労したとて、僕も貴方も褒美を求めちゃ ならないですよ、只単に利行を行っていくんですよ 愚かな人は他人を利すれば自分の取り分が無くなるんじゃないのかなんて勘定 ばっかりしてるわけですが、利行はこれも仏法の一つに他ならない、 いつでも施した自分も、施してもらえた相手も、またその逆もあり、利益は仏法に 手を合わせた全ての人が享受できるのですよ 同事というのは何にも変わったことではありませんよ 自分のことであるし、他人のことでもある。 例えば人を救いたいと思ったら、思った人がもはやお釈迦様なのだし 他人が困っていれば自分の事だと思って問題を考えて、後に自分がそのような 窮地に追い込まれたらあのときのことを思い出してその苦難を乗り越えることができるでしょう。 まして、それが哀しい出来事じゃなくて楽しいことなら、他人の喜びは私の喜びだと思って喜びは倍増。 喜びはますます伸びて、苦しみはどんどんと消えてゆきますよ。 自分と他人としてばかり見ていると窮屈なだけだから 乗りかけた舟、同じ穴のむじなだと思っていれば何も窮屈でも他人でもない 言えばお互いがお互いにお互い様 海へ向かう河の水を、その自然な流れを誰が止めることができますか それらは自然に集まって海に向かい海となるんですよ 生き物はこれが性だから、自己を防衛する本能で、我の領域を主張しますが 大自然にそんなものないのですものね そういう心持ちに慣れればいいのになあと、静かに思いますね いや、軽はずみには思わないでくださいね すべての命がだれに騙されることも無く、すくいわたす恩恵を等しく受けるように みんなが、みんなで慕いあい、敬いあい、礼拝してゆきましょうよ。 どんな言葉をかえ形をかえたとて 仏の道を行きましょうよ |
第五章 行事報恩 誠の道を行く報恩の日ぐらし この菩提心はおおよそすべての地球人が発すべきことですよ 地球上に生まれようと願ってみなさん生まれて来ましたよ そしてお釈迦様の仏法に出会えたのですから なんにも特別じゃない、それが人類普遍の法則なんだと分かったから ご先祖様や国家や社会への恩と言うのは当然ながら、 殊に仏法僧の三宝への恩に報いる日暮らしが大切なんですよ それは何にも特別なものじゃないですよ、暮らしの場、そのどこにいても できるのですよ、お寺もみんなが集まる会所なわけですよ 報恩感謝といって特別なことは無い 一日一日の生命を大切にして「仏様の道から外れないようにと願い」 それぞれが荷っている大切なお仕事に心から励んで続けることこそ、 仏法に叶った生き方だと先達も仰います そのとき、仏様を別な世界や他の時代に求めるのではなく たった今、この世で、丸ごと僕があなたが、あなたが僕が、仏様の姿だという ことに気が付くことが大切となってきますね 命を大切に この上ないめざめた師に会うためには、いろんな人の持っている毛の色や 肌の色や目の色や特徴、背が高いとか低いとか、太いとか痩せてるとか、 あるいはどこのどんな国とか信条がどうかということすら越えて行く 越えて、越えて、その人の嫌いだと思う所さえも越えて よく観察して学び、日々に三時に礼拝し恭敬して、さらに気にかかって苦しむことを苦しまないぐらいどしっとかまえて、そのものを飲み込んでよしとする 今こうしてお寺でもどこでも仏様を見奉り、法の話を聞いたり出来るのは、仏祖が面々の行事より伝えられてきたことの慈恩にほかなりません 仏祖がもし一人とて欠けていたら、今日の貴方も僕もなかったでしょう。 一言でも感謝して恩に報いましょう 一法でも感謝して恩に報いましょう 正法眼蔵(正しい仏法の眼目となるものを、すべておさめてある蔵。仏祖の 法門)を残してくださった道元禅師様、天童山のお師家様各和尚様、達磨大師様、何より根本におわすお釈迦様への大恩、どうやって恩に報いればいいか それほど偉大な仏法 雀であっても亀であっても恩を忘れない例えもありますよ。 特別なことではなくいいことをしたらいいことがあるんだから。 犬や牛の家畜でさえ恩を思って感謝の心で居るのに 人間というのはさもしい生き物ですね 争ってばかりで、大自然や親達に恩を返そうとはしない 特別ほかの事をせいと言っているのではないのですよ 只当たり前に、日々の行事すること、それが報恩報謝の全く正しい道ですよ。 いわゆるその道というのは、日々の命を無駄にしないということですね 自分のためと思ってやるんではなく、一つ一つが報恩行事なんだと思って丁寧に やることですね。 時間が過ぎるのはあっという間ですよ。 人間など一生あっという間に露のように何にも残りませんよ 善いことを残したって、たとえ話か昔話でそれで御終いでしょう 一日は過ぎたら戻ってきませんよ 100歳生きてもあっという間、だらだら生きていたらすぐに骸骨ですよ たった一日でも命がけで生きるという一日は百年の値打ちがありますよ そういう行事をしましょうよ 誰もが大切なその身なのですから、自分自身の身も心も愛し敬いましょう。 みんなで仲良く日々報恩の行事をあらわしたとき、すべての命の道筋が明らかとなって、すべてが健やかになりますよ、健やかなだけではありませんよ、思いのままになりますよ、すべての命は輝きますよ そうありたければ答えはかんたんなのですよ 一日の行事が仏様の種だと思って、仏様と自分が一つだと思って 生きてる人も亡くなった人も、過去も未来も、全てが貴方と僕にその愛の全てが いまそこにもここにもあるんだということに気が付いて。 ほら、 それに気が付いたら貴方も僕もお釈迦様なのですよ 全てのご先祖達、全ての子孫達は今は姿かたちは見えないけれども たった一人のこの世のあなたと僕を真剣に見つめているんですよ 時間と空間を超えて貴方と僕が生きて欲しいと皆が祈ってらっしゃいますよ ひとりじゃないんですよ、ひとりぼっちじゃないんですよ みんな誰かに愛されて存在しているんですよ 生存を願われてみんなが生きているんですよ ほら、あなたも僕も、今まで仏教徒の人はとくにお釈迦様一人を対象に 祈ってきたのですけど、実はこの様に同じ位あなたも僕も、多くの多くの 有縁無縁の人々に「心の頼りにされて」生きてこれたのです、そしてこれからも 生きていくのですね 誰も彼もが、見たことも無いほどの大宗教の教祖に位置するのですよ 誰も彼もが、全人類全生命の大統領ともいうべき責任のある立場なのですよ 好もうと好まざるといえども至ってこれが生命の真実です 今生きているということ、勝手にリセットできる命ではないということ 人は一人に見えても、人という生命と繋がる全ての命が、たった一人の命を まるで一つの宇宙のように膨大無尽にとりかこんでいるということ。 守っているのだということ。 聞こえる声だけが声ではない 眼に見えるものだけが全てではない このように命はすでに時間と空間を超越しているのだよ 生まれて欲しいという願いなのだよ 生きて欲しいという祈りなのだよ あなたと僕が涙を流すとき、一粒の涙は海の荒波とも変わりが無いのだよ あなたと僕が笑うとき、宇宙のどこかではまた新たな銀河が生まれているのだよ それほど何もかもが繋がっているんだよ、何もかもがだよ ※(ゆえにすべての生命は天上天下唯我独尊であるということ) その姿は時代を超えてお釈迦様と何にも変わらないと解りましたね 私一人が私一人で私一人を 愛してきたつもりが、みんな誰もが数え切れない誰かに愛されていたのですね はじめから、生まれるべくして天文学的な人数に祝福されて生まれたのですね 死んでいくその日まで どんなに生命が恵まれた存在かをたしかめ ともに生きるなかまに命の大事を伝えましょうよ 生きれる限り生きよう、仲間を死なせてはならないです 全ての命と向き合おう、出来る限りを みんなの手で生きましょうよ、良い世の中を創造しましょう。 あなたと私の、全ての仏様に向かって・・・・・ 合掌。 |
修証義の解説修証義全文意味現代口語訳音声43分38秒
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慕古心起源仏法僧
今日又是行事報恩
寛厳自在一視同仁
西洋と東洋に偉大なる学者あり。西の人アリストテレスといい形而上学を記す。東の人道元禅師といい正法眼蔵を記す。本項は道元禅師の書の抜粋である修証義の訳文である。
AD2000.05 日本国IT初訳。 當解釈は普段の禅修行に根拠する。
徹心寛仁瑞世時著。無断転載、無断引用、乃至無断商用厳禁。