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岩手の歴史 
岩手県は、日本国の語源となった日高見「ひだかみ」を古称とす
る。その歴史はおよそ古く、太古の古代は原人と呼ばれた人々が
同県の早池峰山から宮守村、遠野にかけて住居していた。約45
00年の昔、他国より水害で移住してきた人々とともに文明と文
化がもたらされ、日高見国(日ノ本国)として北海道より九州ま
でを治めていた。奈良時代には韓国朝鮮半島からの移民者が作っ
た大和朝廷からは蝦夷と呼ばれたその中心地で、8世紀末の38年
戦争では日ノ本天皇アテルイは、大和朝廷同じく渡来系移民の子
孫である坂上田村麻呂の率いる朝廷軍と戦った。その後、蝦夷は
全国に強制移住させられて俘囚と化すが、後に一部が許されて帰
還し、11世紀までに俘囚長の安倍氏とともに半独立の勢力を築
いた。安倍氏は前九年の役で源頼義の朝廷軍になびいた秋田仙北
の俘囚主清原氏によって滅ぼされた。その清原氏も一族の内紛か
ら後三年の役で滅び、安倍氏の血を引く藤原氏が東北を統一して
黄金時代を築いた。
江戸時代には、県の南部は伊達氏、北部は南部氏によって統治さ
れた。幕末に東北諸藩が奥羽越列藩同盟(北部政府)を作ると、
現在の岩手県を支配していた南部藩・伊達藩はその中心となる
が、結局敗れて明治政府によって占領された。
その後、盛岡県を岩手県に改称させられるなど、敗戦の屈辱をバ
ネに人材が輩出し、原敬が総理大臣に就任して薩長藩閥政治を終
わらせ議会政治の定着をはかるなど、近代においては岩手県元知
事の千田正の采配もめまぐるしく日本国家建設に多くの功があっ
た。現在「陸奥=みちのく」と呼ばれる以外は、太古の栄光を知
るすべも無くなった岩手県ではあるが、日高見の国を童話「銀河
鉄道の夜」で有名な作家宮沢賢治がイーハトーヴォ(理想郷)に
なぞらえる等、郷土を愛する市民の多いことも如実であり、冬の
気候は厳しいながら温情暖かな人々の集う理想都市である。現在
知事の増田寛也君をはじめ、岩手県民が一体となって環境問題に
取り組み、輝かしい郷土の歴史とその心を子供たちに継承してい
る。
北上市は水の便に恵まれ、縄文の昔から北上市更木の水乞山を中
心に大規模な集落が作られている。昭和に入ってからは旧更木村
長の千田甚太郎によって北上川に昭和橋がかけられ、それより北
上はめまぐるしく発展を遂げた。ここ北上市は古くは宮守村、遠
野から移転してきた人々が、土地の郷氏と睦み、日本国の古称で
ある日高見国の中央として古代は豊かな台地であった。
9世紀、平泉より遡ること250年前には、国見山極楽寺が山岳
仏教の拠点として栄える。


岐阜の歴史
歴史そのものは原始のむかしより人の住む。飛騨高山にはじまる
岐阜県の太古の歴史は、日高見国(岩手県)と耶靡堆国(石川
県)の睦みによって約3000年前に開かれる。シルクロードを
作ったサマルカンド(ソグド)のその末裔たちは、大淡上方(お
おあわのかみがた)と呼ばれ15代続いた後は天照大神と名乗り
2250年前の35代(三輪明神の祖母)が奈良へ行くまで続く。
これより4代後の神武より大君の笏(しゃく)は飛騨高山から倭
国(後の大和)に飛騨より許可を経て贈られた。尚、飛騨白川郷
は世界遺産に登録されている。


奈良の歴史
桜井市の歴史は古く、縄文太古の昔は同市三輪山近郊の巻向にて
大集落を形成している。約2250年前、岐阜の地震によって逃
れてきた人々が、同市笠村に移住し、豊かな文明・文化をこの地
にもたらした。

ここは奈良時代以後、豊葦原瑞穂国と呼ばれた。三輪山にはこの地
を和邇(丸子)に養子いりしたこの地初代の大王が祭祀されて
いる。紀元前後に天然痘の流行った際には九州より天皇の代理と
して卑弥呼(正しくは日弥呼)がこの地に来て、治世を行った。
また彼女は紡績を推進して当時なすすべをしらず悲惨な目にあっ
ていたこの地の女子に仕事を与え、また、病人のために療養施設
を作るなどして、社会福祉事業を行った。後に皇居は三輪から初
瀬へと、そして天皇敏達時代に飛鳥へと移された。538年百済
より仏教がもたらされ、三輪明神(後明治時代までの大神神社)
に百済仏が安置され、聖徳太子が、581年大三輪寺(現在の平
等寺)を創建して百済仏は移され、ここ桜井市より日本全国に仏
教が波及した。大化の改新後、藤原不比等によって藤原京が建設
され、710年には平城京を整え、当時世界の中心であった中国
の唐を手本とした律令国家が形成された。このとき、大和郡山に政治
的な拠点を置いた。同時に三輪を中心とする奈良盆地全体を占め
るほどの、当時世界最大級の都であった倭京は、藤原の政策によ
って改名され、はじめて日本(大和)の号が使われ始める。平安
京にいたるまでの時代、奈良県桜井市は国家形成の基礎となり、
今尚三輪山の神社仏閣への信仰は篤い。

国家運営を邪馬台と呼ばれた時代(紀元前〜5世紀)は、国の中心を

三輪(みわ)と言った。み「神聖」わ「倭」



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日本の歴史〜日本の朝日

目次

【感謝のご挨拶】
【日本創世記】
【鬼門】
【大和朝廷】
【17条憲法の現代語訳】
【信仰の衝突】
【大都平城京の建設】
【天平時代の幕開け平安京】
【鎌倉の世】
【南北朝の時代】
【室町幕府武士の時代】
【戦国の世はじまる:男たちの求めた理想郷】
【まとめ】

 

「日本の歴史〜日本の朝日」

                Japan's description

 最初に、この著を読まれるあなたに感謝いたします。

アジアの極東に、日本という国があります。
 日本人の先祖は人類学的に、モンゴロイド人と呼ばれています。日本は石器時代と呼ばれているその昔。
 8万年から13万年も昔に黒龍江沿いに沿海州から間宮海峡の氷上を通じて樺太へ入り、更に北海道から本州へと大移動して来たといわれています。北海道、東北方面から人が入ってきたのを証明するかのように東北地方の岩手県花巻市では、3万年も昔といわれる石器時代の遺跡が発見されています。縄文文化が色濃く名残のも日本の北東北と呼ばれる地域です。現代、地球人が宇宙に出るために使用されているスペースシャトルの外壁が、高温にも耐えるセラミックス(陶器)で出来ていることは有名ですが、このセラミックスは、岩手県、津軽、東北、この地域の遮光式縄文土器(炭素セラミック)の成分を参考にしてNASAで再開発されたものです。
 いずれ、日本人の先祖シュメール(皇)人が神によって与えられたこれらの技術は、聖なることのために使われる時は効力を発揮するにせよ、愛情の無い計画に対しては、災いとなることでしょう。愛情が無いとは、欲のために一部の人だけが生き残る、あるいは財を得る働きをいいます。日本先祖のテクノロジーは、聖に使われてこそ機能するように作られているのですね。

このことから、縄文時代といわれる太古の昔は、充分に優れた文明であったことが伺えます。また、北海道函館市では、9000年前の漆器(うるしを塗った器)が発見されています。漆を使う文明として、現在、世界最古といわれています。それを知ってか知らずか、日本は、世界的に漆器(JAPAN)の名前で呼ばれています。

【日本創世記】

 4千5百〜4千9百年程前には、現在の東北地方に国が興って来ました。まさに高度なシュメール(皇)文明が逆導入された時期です。津軽で阿蘇辺王国が起こり、近畿に邪馬台王国、筑紫に熊襲王国、出雲に出雲王国、関東に日高見王国、と、続々と王国が建国されて来ました。ユーラシア大陸、朝鮮を経由して来た人々が、石川県(加賀)の三輪に移住し、100以上ある小国を統一して耶靡堆国(やまたいこく)を建国しました。
 耶靡堆日子(やまとひこ)とも阿毎氏(あめ)とも言われる初代王は、耶靡堆国明日香(やまたいこくあすか)の箸香(はしはか)の山を三輪山(みわやま)と名付けました。
 その後、加賀(かも)の三輪山神を現在の奈良県桜井市へ移し、これを三輪山大神として、その土地の大杉に住む白蛇を大物主神(おおもののぬししん)として祀りはじめました。
  (三輪山は、日本のピラミッドなのですが、面白いのは、その山の形がただの三角形ではなく、調度四季の気温をグラフで表したような形であること。みんなのご先祖様が生きたまほろ場へ、一度は行ってご覧になられてください。)
 この時に耶靡堆国(やまたいこく)は国号を耶馬臺国(やまたいこく)と改めました。
この下に筑紫九州を耶馬一国、南海道三重和歌山を耶馬二国、出雲を耶馬三国、東国関東以上を耶馬四国と称しました。後に耶馬台族の安日彦王が耶馬臺国中央の王になり、合わせて五人の王を立てて政治を行いました。

  最後の天照大神(ニギハヤヒ大王)が、大陸を巡り、中国を経由して秋田県と山形県の境にある鳥海山にやってきました。その時ニギハヤヒ大王が乗っておられた軍艦が、大きく見事であったため、後に人はその船を「天の岩舟」と呼ぶようになります。日本書紀に登場するその船は天空を駆け巡ったといいますが、筆者は当時の例えばギリシャの高度な化学文明を考えたなら、空を飛ぶような乗り物があってもおかしくはないと察するのです。
 現実ギリシャでは、紀元前600年すでに歯車式の天体観測コンピュータが存在しており、現在はこれを応用して乳がんの治療などを可能にしているというから驚きです。
 ニギハヤヒ大王は神祭の御式、呪い、医術などをこの島の民衆に広めました。
 また、造船技術、武術にも長けていました。
 ニギハヤヒ大王は、出羽に赴いて、しばらくの間そこに住みました。
 その後、先に日本に上陸していた叔父の勧めがあって、奈良県生駒市に転進しました。
 そして、生駒市富雄(鳥見郷)に軍の本拠地を置き、斑鳩周辺よりはじめて大和盆地を南に向かって治めて行きました。さらに南下して、三輪山という神山に移り住みました。
 三輪山は日本のピラミッドといわれています。
 鳥海山にあるような黒い巌がごつごつと、山の頂上に鎮座してあります。
 この時、邪馬台国は大王不在でした。その変わりに、ある巫女が執権をとって、神事を司り、国を運営していました。
 巫女の兄(長髄彦)とニギハヤヒ大王は酒を交わし、話していくうちに大変仲良くなり、長髄彦のニギハヤヒ大王への申し出が、是非とも三輪の地の大王になって欲しいという事であったので、ニギハヤヒ大王は王として鎮座しました。
 ニギハヤヒ大王は、新しい国つくりを平和的に遂行してゆきました。
 数え切れないほど多くの日本の諸国の王、族長を天理市石の上へ集めて、共和体制をしきました。
 また、奈良県天理市石の神に、武器を納めさせ、他部族の侵攻にそなえさせました。
 また、この事は刀狩を兼ねていました。

 多くの小国の族長(王)がこの時代の動きに敏感に同調して、倭国とも称される耶馬台国は、急激に頭角を表してきたのです。時代は安定したかに思われました。
 ところが、紀元前200年頃、筑紫日向高砂族の佐怒王(さぬおう)が邪馬台国へ東征を行い、再び戦乱の世となりました。まず、佐怒王は、日向王五瀬彦を送り込みました。7年もの攻防戦でも決着がつきませんでした。この間に日向軍は、出雲族と合流して戦力を高め、耶馬台軍を後退させました。
 8年後、八百隻の軍船を従えて、佐怒王と五瀬王が難波に上陸しました。
 五瀬王は、この時、長髄彦王らの耶馬台軍によって致命傷を負い、討死しました。
 そして佐怒王が将軍となりました。
 この後、難波からの上陸が極めて不可能だと考えた日向軍は、紀伊半島を迂回し、熊野を通って耶馬台国を攻めました。深傷を負った長髄彦王は戦いに敗れ、東国へ一族を連れて退去しました。安日彦王もまた、東国へ同じく退去しました。佐怒王は邪馬台国を攻略して立君し、神武天皇として大和王朝を興し、日本紀元を称したとされていますが、それはこの時期からおおよそ30年後のことです。

 長髄彦と安日王は福島の会津で再開し、再起を願って東日流(津軽)へ逃れ、安日王を中央王として立君し、三輪郷(青森県弘前市)を中心に全く邪馬台国と同じ五王の制度を布きました。
 ここに秋田の熟族、岩手の麁族を併合、長髄彦王らが津軽に来る前には晋の時代に敗れた遺臣、その一族が大陸から稲を運んでいて、津軽の日之本国荒覇吐王朝は豊かでした。

 日之本国荒覇吐王讃日は自ら支那に赴いて馬を導入しました。
 支那へ渡った際、支那東周王朝安王と友好があって、安東将軍と呼ばれたといいます。
 騎馬軍を編成、秋田の石油を軍用に用いるなど新技術を駆使しました。
 日之本国荒覇吐王済糖彦は、この騎馬軍を5万騎に膨らませ、日之本国荒覇吐王武波日の時には念願の故地邪馬台国(倭国)を奪還しました。
 孝元天皇の邪馬台国立君を良く思わないでいる奥州各地の荒覇吐族長老達は坂東(関東地方)に興日彦王を立君し、彼を日之本荒覇吐王国正王としました。
 これに激怒した武波日彦王は、荒覇吐族を脱して、自らを日本天皇と新め、(出雲、南海道、筑紫、山陽、山陰)を統一して王国を形成しました。
 坂東の日之本国と出雲の日本国が激しく紛争を繰り広げたのが、秦始皇帝の甲戌20年だと伝わります。
 またこの合戦の地が邪馬台国(倭)の那古、現在の名古屋です。
 つまり、名古屋が西国と東国の堺でした。
 孝元天皇の子供がやがて父のように邪馬台国を再び統一しました。
 三輪山に即位したその人物は後に、開化天皇と呼ばれ民衆に親しまれる存在です。
 

 以上の流れが解かり辛いのだといわれる歴史通の方のために、もう一度創世記の説明をいたします。
 平和な日々が続くと思っていた矢先に、九州より圧倒的な軍事力をもってウガヤ王朝(騎馬民族)の佐怒・さぬ(神武天皇と後世に呼ばれる人)が大阪の難波から上陸し大和の葛城山を降りて、三輪へ一気に攻めてこようとしました。ここで長髄彦王が敵軍に対して攻撃をしかけました。 佐怒の軍は一度長髄彦の決起にたじろぎました。
 そこで佐怒の軍は紀伊半島を迂回、熊野に上陸しました。残念ながら佐怒の兄五瀬は先の戦いで負傷しこの時すでに息絶えていました。佐怒の軍は、地元の豪族と戦いました。佐怒は自分こそが天孫であると信じているので、日本の原住民を熊襲とか土蜘蛛といって虐げました。虐げられた原住民も、そのままでは腹が立つので佐怒の軍勢に力の限りに歯向いました。日に日に佐怒の軍民はその数を減らしてゆきました。そういう最中、三輪山の東南、磐余の地にあって、両軍は対極しました。緊張の真っ只中で、長髄彦は臣下を使者として佐怒の元へ何度も行かせました。
 そして、「なぜ天孫ニギハヤヒ大王に楯突くのか」と問いました。
 と、その時、佐怒は、自分と同じ天神の御瑞を、ニギハヤヒ大王が持っている事を察しました。
 かくして一時休戦をしき、ニギハヤヒと佐怒は御瑞を見せ合い、確かに両者が持つものが本物であることを確認して、ニギハヤヒは、佐怒が同族であることを認め、武力による支配をしないという条件を出して、佐怒に国を譲ることを約束しました。佐怒の子孫は後に崇神と称されます。しかし、面白くなかったのは巫女の兄の長髄彦です。
 長髄彦は、また決起して、佐怒をやっつける覚悟であることをニギハヤヒに伝えました。ですが、どうしても和睦の道をとらない兄を、ニギハヤヒは東北へ逃しました。
 巫女と手を携えてニギハヤヒは共に、島根県出雲市へ移り住みました。
 佐怒は、ニギハヤヒと出会った事を大切に思い、抵抗勢力に対して極力武力を使わない方法を取り、臣下として地位を与えていきました。勿論、ニギハヤヒへの恩情は忘れておらず、ニギハヤヒを兄と慕い、出雲の国の宮は国中の大工を集めて盛大なものを作らせました。佐怒(初代神武天皇)は、事あればニギハヤヒに占いを立ててもらい、神示を聞きました。
しかして後、東西の第9代開化天皇の時代まで争いが絶えなかった、と。

 

 

【鬼門】
  日本では、鬼門として祭られている方角があります。それは、東北と西南を表しています。鬼門とは、古来から日本人にとって忌み嫌われるもののように捉われてきたようですが、実際の意味は違います。その意味は、この唄に示されています。日本には「かごめの唄」として親しまれている童謡があります。

かごめ かごめ

かごの中の鳥は

いついつ出やる

夜明けの晩に

鶴と亀とすべった

後ろの正面だあれ

これを解りやすく翻訳するとこうなります。籠目は六角形、六母星古の国。その隠されてきた真実はいつ解き明かされるであろうか。それは古代日本が思い出される頃です。伊勢と出雲で祀りを行いました。後ろの正面、三輪山で政治を最初に行った大王を、封じ込めるためでした。その大王は誰でしょう。この唄は、ニギハヤヒの共和政治、人間としての暖かさへの慕古心からきました。大黒様として奉られている神への憧れです。
 そういう情け暖かい人間が統治者として居て欲しいという日本人の期待です。
 
 ですから、ニギハヤヒの居た秋田、出雲、三輪は聖地と考えられ、三輪山から見て、鬼門(丑寅、西南東北)は、決して汚してはならない方向だとして、代々日本人に言い伝えられてきました。それは、また日本の天皇が統治を行っていく上で、このように完全に誤解の無い形で言い表せる日本人が現れない限りは、タブーとなってきたことなのです。
 かといえ、このことは、神道に本当に通じている日本の神官や僧侶には知られています。 
 日本に来て、これを聞いたからには、方角にこだわらず、全ての方角の死者に対してありがとうと思えるようになれれば良いのです。あっちもこっちも土地を汚したり乱開発したりすると祟りが有るというのは、まんざら嘘ではないのです。
 祟りとは、先祖代々の叡智、教えをないがしろにしてきたために、思わぬ災害に遭遇するという意味です。
 これに補足として、日本には北枕は駄目だと言う風習がありますが、全てのものは北極星(N極)を向いて吸い込まれていっている事実を考えたなら、北枕は自然の流れに逆らわない形だということに気が付きます。それに気付いたのはお釈迦様(ゴータマ=シタッルタ)であって筆者ではありません。
 しきたりを重んじる日本人は、なぜ今上天皇陛下が三輪山にではなく、出雲へ参詣へ行かれる理由がお分かりになられたことでしょう。そして、天皇陛下の言葉が、何故世界平和を望むと最後にいんを結んであるのかに気付かれるはずです。それは、国譲りをしてくれた人間、ニギハヤヒへの感謝と、長い歴史の中で、王たる王が、平和こそがこの地球に最も必要なことなのだと心からと過去の残虐を反省して思い、言い表しになられる、それ即ちは、日本の父権、天照大神ニギハヤヒへの御誓いなのです。
 また、ニギハヤヒ大王の教えは、日本語50音の語源といわれる「ひふみ祝詞」に鮮明に伝えられています。筆者が1996年、環境保全を奈良県の天理は石神神宮で神に誓った際、ふとその意味を直訳してみましたので、ここへこられた皆様に特別に教えてさしあげましょう。

* ひふみ祝詞*

{ひふみよ いむなや ことをちろらね しきる ゆるつあぬ そほたはくめかうおえに さりえてのます あせへほれけふるべ ゆらゆらと ふるべ}

 生まれ出て、上より恵まれ、下から慕われ、物事がまさに始まろうとしている。
 様々な「人」、「物」、「情報」が、集まってきて、万事は順調にゆく。
 信義を、もって対処するならば、良縁に恵まれる。
 万物が、生まれ、少しずつその範囲を広げて、全ての事物が凝りなると、準備万全、
 まさに、水蒸気のように運気が立ち上がって、進みゆき、栄える。
 人に、親しみを得れば、人々の和を得て栄える。順風満杯とは、まさに、このことである。
 次に、この成就したもの、「組織」、「会社、「機関」などが、親子上下で背きあい、
 小さく分裂する。
 それらは、陰陽共に相和して、栄えてゆく。
 それらが、あるがままに、進んでゆくという事は、力強く、変化に満ちているので、
 蟻一匹殺さない様な気持ちで、よくよく、心和らかに対処してゆくべしである。
 我々の願い、「世界の和平樹立」は、徐々に浮かび上がることは、成り難い。
 陰陽の因子が、並び、共通の求める幸せの為に吉祥を招き、天地「男女、善悪、陰陽」
 が、一つと成った時に、世界の全ての願いは成就する。
 苦しむ人は楽になり、盛んな人は、衰える。是をもって、万邦は、和楽する。
 全ての人が、幸運を得て、立ち上がる。因って、何人も、人の求めに応じて、
 全ての事に一歩退いて、対処することが、必要である。
 
 平常なる心で活きてゆこう。心配することはない、大丈夫だ、平常なる心で活きてゆこう。この祝詞の意味を聞いて、仏教の「般若心経」を思い出された方も少なからずおられるのではありませんか。そうなんです。ことの見事に意味が一緒なのです。言うならばアインシュタイン博士の相対性理論。「空」の教えです。
般若心経は難しいことを散々言いまくった挙句に、呪。即説。呪日羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提娑婆訶。般若心経。と言っています。

 つまり、難しいことはいろいろ申しましたが、最終的に決めるのは未来を生きる皆さんなのですよ、と、三蔵法師がインド語を中国語に翻訳してるんです。是すなわち、呪文にして残すには・・・・残せません。だから行きましょう行きましょう彼岸の岸へ、皆で手を合わせて。そういう意味なのですね。全く瓜二つですね。だから、神仏が違うもののはずが無いのです。


 

【大和朝廷】

 

 崇神天皇は、三輪王権を樹立しました。またここに、市場を設け、市場の発展を促しました。これまで、完全な統治というものが存在しないで居たことから、この地域は安定していて、そして栄えました。ため池の設置、都の造営、急ピッチで新都の建設がなされました。これを、実質としての日本国の一宮、磯城瑞垣宮といいます。現在の平等寺、そして天理教敷島大教会のエリアがそうです。天理教の敷島大教会という立派な教会があるのですが、この敷島とは、古代日本語で国の目という意味です。つまり、古代日本語とはアイヌ語、そして沖縄に伝わる言葉です。
 また、この時期に大三輪の神を三重県の伊勢に移し、男神であるニギハヤヒを女神にしました。身の保身とともに、「母性」にすがる思いで、歴史を塗り替えた訳です。誰も好き好んで戦争をしたいとは思いません。イシュタルとも女神とも言われるシヴァの神を故国より導入したのでしょう。
 付随ですが、伊勢鳥羽のイゾオ宮には、キリストが十字架にかけられたときに頭に被っていたものと同じものが、あります。現在グローバル時代と言いますが、実はもともと世界はグローバルであったことの証明です。
 都の建設は時代が過ぎても尚続きました。
 そして、現在の奈良県桜井市エリアは、日本国(倭国=邪馬台国)の中心として栄えました。ところが、これを揺るがす出来事が、538年、突如として起こりました。それは朝鮮半島の戦争に倭国が巻き込まれるという形で起こったのでした。この時、欽明天皇かなさしの宮へは、観世音菩薩という仏の像が百済(今の韓国)より送られてきました。そして、百済の要請は、北方と戦うにより倭軍の援護をお願いしたいとのことでした。
 552年には法興寺(現在の飛鳥寺)が蘇我馬子によって建立されました。この頃、後の世に聖徳太子として親しまれる皇子がこの国に生まれています。その皇子は将来、実質この極東アジアの連合軍の大将軍となります。また、深く印度神道である原始仏教を受容していました。
 古代の哲学者であった太子は、乱世を治める雛形を仏の教義に求めたことは確実です。
興味深いことに、彼の偉業を修めたと伝わる大成経には、大三輪神社に僧侶を招集し、祈祷させたという旨の記述があります。これが581年であり、日本国はじめの官営寺院「大三輪寺」現在の平等寺の開基でした。
 大三輪寺には、百済仏の十一面観世音菩薩が安置されました。
 彼は、その仏を、十一の顔をもって、苦しむ国民を救ってくださるニギハヤヒになぞらえました。
 天多利子比孤(聖徳太子)は倭王を名乗って、隋の皇帝煬帝にアジアの共栄圏の指導権を自らに与えて欲しいと嘆願し、皇帝煬帝は日本では有名なこの「日出処天子」から始まる嘆願書を直ぐには容認しなかったものの、「西天の菩薩」と褒め称える真摯な姿勢を労ってか、結局、倭王に極東における独裁権を与えました。
 律令を導入し、12級の階級制度を設し、17条の憲法を制定しました。三輪王権が、この頃すでに大和王権となっており、そして更には、大和朝廷となった瞬間でもありました。この「大和」とは、中央アジア、ヤマドゥーの民であることを現しています。皇帝という言葉を耳にしますが、皇の下に帝があるのであり、皇とは「シュメール」であり、帝とは「ミカドゥ」のことです。以前帝族はわれわれ皇族の意見を黙殺し、大日本帝国を名乗って廃仏毀釈し、戦争に挑みましたが、賊徒である「帝」をかかげたために、軍隊に規律が無く、敗戦したのです。大日本皇国と名乗っていたならば、敗戦はおろか、無益な戦争に駆けてゆく必要すらなかったことでありましょう。昭和天皇は、われわれと同じ皇孫であられながら、帝孫を側近、官僚に置かざるをえなかったために、完全な支配権を得られなかった。これが、神道を基本としていながら、日本が不名誉な惨敗に至った原因です。
 わたしは差別者ではありませんが、歴史は血に貴賎があることをはっきりと証明しています。
 貴とは、人の命を敬い和平を望む者。賎とは、盗み殺めをし戦争を好む悪魔たちのことです。
 
 ヤマドゥーは、騎馬民族の国という含みを意味しています。

【17条憲法の現代語訳】

 ■第一条 仲良くお互いの心を大切にしよう。実績のある人に逆らわないように心掛ける。人は皆それぞれに考えがある。それゆえに、あるいは天皇に従わず、臣下と意見が違うことがある。しかし、上の立場の人は和し、下の立場の人は仲良くして、事を論ずるに和をもってすれば、事理はひとりでに通じて、功を修めることができる。

■第二条 日ノ本国の官僚であることを忘れず、この憲法を守り、皆仲良くする。これは、全て倭国民の基本理念である。時代が変わろうとも、この基本理念を疎かにすることは考えられない。仕事仲間は兄弟と思い、善き事をよく教え合おう。
この憲法を守らなければ、誰が日本を守るというのか。

■第三条 天皇の決定は、謹んで実践しよう。全員の決定は個人の決定であらねばならない。個人の決定もまた全員の決定と相違してはならない。例えるなら、日本は人の身体と変わらないのである。
組織たる天皇からの伝達は、曲げることなく官僚に伝える。また同じく官僚の意思は曲げることなく天皇に伝える。

■第四条  この国家の基本は礼である。上司に礼がなければ部下は整わない。部下に礼がないときは必ず罪がある。
礼のあれば、関わる人は皆やさしく、楽しく暮らせるのである。

■第五条  接待を絶ち、公の利益を重んじ、部下の訴えを公正に聞くべし
。また、官僚や、他の団体に対して賄賂を送るなど、談合を持ってはならない。

■第六条  功労を称えよ。また、不正をみては必ず究明せよ。上司に諂い
嘘をつく人は国を退廃させる大きな癌である。また、おもねり、媚びる人はえてして、上司に対して好んで部下、同僚の過ちを言い、部下、同僚には上司の失敗を誹る。このような人は天皇や官僚、人民に忠心が無く、人に仁愛をもたないものである。それが国家が乱れる本になるから、警戒し、人選を誤らないようにする。

■第七条 人それぞれ任された立場がある。それぞれの役職を混乱させてはならない。賢人が任務すると賞賛の声が起こる。邪悪な人が任務すると、災いや混乱が度々起こってくる。
 生まれつきの知者は少なく、よく思考して初めて気が付いた人となることができる。事に大小があるわけではなく、時に緩急があるわけではない。賢人になって自ずから寛大になると古来より言う。これによって国家運営は遂行され、続き、国運は危機を退けるのである。ゆえに、昔の賢い統治者は国のために人を求めても、個人のために人は求めなかったのである。

■第八条日本国を愛す。常々日本とは何であるかを考え、官民相和してさからうことなく、皆で国を治めよう。


■第九条 信じることは、義の本である。全てのことに信じる気持ちがあるべきである。善いこと悪いこと成功すること、失敗すること、すべて信じる気持ちによっての事である。国家に皆互いに信じる気持ちがあれば、何事も成功する。逆に信じあわなければ、すべて失敗する。

■第十条 憤慨せず、怒らず、そういう得に成らない気持ちは棄てて、他人が自分の意見と違うことを怒らない。人にはそれぞれに心があり、思うことがある。他人が良しということは自分には非であり、自分が良しとするものは他人には非であるもの。これほど時代が進んでも、一向平安穏便にできる人がいないのだから、誰が偉いという話も無い。
故に誰しもお互い様なのであるから、他人が怒ったら自分に過ちはないか反省せよ。自分ひとりが分かるようなことでも独断せず、天皇や官僚の意見に従って行おう。


■第十一条功績を明察し、賞罰は必ず的をうるようにしよう。日頃、功績の無い人を優遇したり、罪の無い人を責めたりしないようにする。

■第十二条 官僚は、部下に酷い条件を与えてはならない。責任ある人は、人の心を預かるので、それぞれに重大な使命をもってこれを行う必要がある。

■第十三条官僚は、仕事の足並みを揃えよう。万一連絡が行き届かない場合も、それを知ったならば速やかに同調せよ。自ら報せを聞こうとせずに国政の仕事の邪魔をしてはならない。近況を知るのは官僚各位の権利であり義務である。いかなるときも、遠慮せず連絡をし合う。これをもって意思を疎通する。

■第十四条大臣として任務を担う人、その部下である人も、嫉妬をしていてはならない。自分が他人を嫉む時は他人もまた自分を嫉んでいるものだという。嫉妬の弊害は限りない。ゆえに、知能が自分より優れている他人を見ると悦ばないし、才能が自分より優れている人に嫉妬する。嫉妬するなら、相手より学ぶほうが良い。己の弱さに甘える事無く、先に進もう。

■第十五条私情に走らない。国営の大体が見えていない時、必ず恨みに思う人が現れる。恨みが有る時は必ず同じ心ではない。同じ心でなければ、私情で国家の行事を妨害する結果となる。ゆえに、第一条に上下調和を提唱するのは、この大事を安定に導くためである。

■第十六条 官僚は国政に労働する人を、時期や状態に相応して選び、活動の範囲を広める。
国、団体、個人の特性を見定めなければなるまい。

■第十七条 物事を独断で決めない。必ず多くの仲間と相談しよう。小さなことはいちいち人々に相談することはないが、大事に関しては独りでは失敗があるかもしれない。ゆえに、おたがいに相談すれば、正しい道を得るだろう。

どうですか、例えば天皇を総理大臣、官僚を代議士と言い換えれば理解しやすいはずです。もし、この憲法を今の時代の日本の政治家が理解し実践していたならば、日本はこんなに混迷の時代に入らなかったことでしょう。

 

 

【信仰の衝突】

 天多利子比孤(聖徳太子=厩戸皇太子)は支那-高句麗より来た蘇我の血を半分は受け継ぎながらも自らがニギハヤヒの末裔であることを欽明天皇より教えられて良く知っていました。   だから、海部氏や物部氏や安部氏とも同じ流れの一族、つまり天照系であることを懸念していました。予想通り蘇我氏と物部氏の宗教対立が激しくなってきました。
 飛鳥時代といわれる大和朝廷の創成期にあって、宗教的な祭事の実権を握り、朝廷の中において占いを任される事は、即ち、政治の実権を握ることも同然であったため、日本古来という物部氏のプライドと、朝鮮からの移民者であり元々仏教信仰者であった蘇我氏のすがる様な思いが、こっぴどくここで熱い火花を散らしたのです。物部守屋は、聖徳太子の母親の宮、豊浦寺を放火、襲撃しました。焼け落ちた寺の中から、観世音菩薩の小さな像が村人によって救助され、それを物部の勢力から隠すために、難波の浦に沈めます。
 後の世の話、今長野に善光寺という世界宗教会議の主催地にもなるほどの有名な寺院がありますが、そこの本尊が実はこの観世音菩薩です。今吃驚なされた方。誰が海から善光寺まで運んだと思いますか。それは、「応神天皇」の子孫の方です。応神天皇(ダビデの末裔)の別名は「ホンダワケノミコト」、全国の本田氏の始祖(主)です。

 この時代より策略家であったのが、中臣氏です。中臣氏もまた、祭祀を司る一族で、後の世に藤原として名を残す豪族です。中臣氏は、天皇の代わりに祝詞を神に謳い上げる役目をしていました。
 物部と同じく神社の職務を司る中臣氏にとって、物部氏の存在は利権という計器に載せては目の上のたんこぶでした。 もし、中臣氏にとって、蘇我と物部が一機に滅びる道があったとしたら、それを機会と捉えない事があるでしょうか。
 この時期、女帝推古が天皇であり、摂政は聖徳太子であったといいます。
 女帝は蘇我入鹿をまことに可愛がっていました。推古天皇は入鹿との深い関係を暗示させる記述が残っているほどの溺愛ぶりです。それもあってか、聖徳太子は、推古天皇から薬を頂戴しても飲みませんでした。
 仏教ではそのことを貧民に高価な薬を飲ませた聖人の如きに描いていますが、実際、この蘇我入鹿と聖徳太子は、以下において極力似た存在でした。
 後世に残る一つ星の大業を治め多大な実権を握っていたという事実に関してです。最大の実力者となった蘇我入鹿は、親戚の皇子を皇位につけるために、山背大兄王一族を滅ぼしました。
 しかし、どういうわけか、聖徳太子の親戚である蜂子王と太子の第三子である幼い丸子王だけは、先祖ニギハヤヒの縁の出羽へ逃れることが出来ました。彼ら二人はおおよそ先祖への信仰心の篤い人物で、権力とは無縁であることから、存亡の危機を免れたであろうことは、子孫である私が一番思い当たるところです。
 朝廷からの脱出は、最大の権力者の配慮が無ければ達成できないことです。
 果たして蘇我入鹿は歴史で語られるように悪人だったのでしょうか。

 大阪の大聖将軍寺では、敗者となった物部守屋のすぐ後ろに聖徳太子像が安置されています。奇妙な配置はおごそかに慎ましく真実を物語っています。また、これを大化の改新というべきかどうか、蘇我入鹿が中臣鎌子と中大兄皇子に暗殺される寸前、「一体何故私が斬られなければならないのか」と喚いたといいます。聖徳太子の死後、秦の始皇帝(ダビデ王の末裔)の子孫という秦河勝という人物は、太子が生前朝廷の官僚としては珍しく、海外の人間も平等に扱ってくれたことと、日本での出世の糸口を開いてくれたことへの感謝と敬意で、聖徳太子に祭らう伝説を多く作り、景教、キリスト教にちなんで、太子の存在を誇張したりと、至れりつくせりの大業をなしました。
 良くも悪くも聖徳太子の名を作り、後世に贈ったのもこの河勝公です。京都の有名な賀茂神社、籠神社、広隆寺など、多くの祈りの場を建造しました。それは、即ち太子信仰や(山王・山岳)自然信仰と結びついて行きました。
 中臣鎌子は藤原姓を天皇より授かり、死後遺骸は、茨城鹿島から大阪府高槻市に埋葬されて後、藤原鎌足として長男の定恵によって679年に談山妙楽寺を建てて祭られました。
 この頃の藤原氏は、まるで天皇のように振る舞いました。政治の中心は、奈良県橿原市、藤原京へ移されていました。 しかし、疫病は流行るわ、藤原の親戚や子孫が続々死ぬので、これはどうかしたものかという事で、日本始まって以来の大工事が始まります。

 

 【大都平城京の建設】

 

日本がはじまって以来の大工事です。
 現在の奈良市を埋め尽くす規模の、壮絶なスケールの都が誕生しようとしています。この都の造営を企画したのは、藤原鎌足の次男で名を藤原不比等といいます。日本に詳しい方はご存知かと思いますが、春日大社に祭られています。日本史上貴っての切れ者です。また、この時期から、東大寺を中心に国営の寺院が、全国に作られてゆきました。
平城京は、中国の風水という統計学によって管理されています。都の東に藤原氏権力の象徴、春日大社があります。
 この春日大社を頭に、大和の神社は線で結ぶと、大男が大和神社を足で踏みつけるような形で作られています。藤原氏が、ニニギの天皇家が権力を握ることを封印している姿です。そして、東大寺の大仏は、ニギハヤヒ=スサノオを表しています。また、東大寺の奥院二月堂でのお水取りは、日本ではあまりにもポピュラーな行事ですが、実はこの時、僧侶たちが唱えているお経の中に登場する神々の名は、天皇家に殺された日本人たちの名前です。藤原氏と天皇家は、自分たちの犯した罪を購う為に、平城京という大都を建設したというのが良識の有る学者の通説です。この時代からすでに、天皇を神輿に担いで豪族が好き放題やるという図式が出来上がっています。治世を求めたものの、これから先は、江戸になるまで戦争や災いの続く恐ろしい時代に入るのです。行基が命をかけて公共事業に没頭し、鑑真が命をかけ、失明してまで平城京に来たにも関わらず、一向に世の中は良くなりませんでした。それどころか、人々は狂乱し、まさにそれは芥川龍之介氏の羅生門に出てくるようなおぞましい世界なのです。
 また、東国「日本国」を蝦夷と蔑視しました。
 そして、「それ」は、あからさまに天皇家と藤原氏族が、身の保身をかけて行いました。
 坂上田村麻呂を将軍に、日高見(現在の岩手県北上市)へ大軍を送りました。 紀元前は名古屋まで拡張した日之本国(日高見)も、この頃は大和の勢いによって領土を狭められていました。

 その日高見の将軍をアテルイといいます。日之本国は荒覇吐族であり、日本古代の源流です。あのニギハヤヒとも通じます。アテルイとはアルタイの同義語で、日本におけるアルタイ最期の主、つまり皇孫であられたという事実です。またアルタイとは、鷲のことであり、神武天皇東征の際には猿田彦として登場します。
 猿田彦とは、「新天地、アルタイ(日本)の王」という意味です。
 日高見とはその日之本国の首都で、大和は大都平城京の完成とともに、日本国にいつ挙兵されるかという不安を一掃しておかなくてはならなかったのです。そして、またも間違いを犯してしまいました。
 アテルイが大和に捕らえられ、大坂にて処刑され、津軽神(カムイ)の繁栄も幕を閉じるのです。

 <南部牛追い唄>〜岩手の民謡〜

田舎なれどもさはえ

南部の郷はよ

西も東もさはえ

金の山こりゃさんさえ

今度来る時や さはえ

持ってきてたもれよ

奥の御山のさはえ

なぎの葉をこりゃさんさえ

備考:なぎの葉は(天皇家象徴)草薙の剣   

意味は先程の解説を参考にして下さい

 結局これは、天皇を中心にして利権に群がる政府役人と土建業者の談合、この世の花とばかりに性を謳歌する民衆の最悪なコンビネーションがもたらした狂気です。利権は財政のピラミッドを形成し、それは貧しい階級の一般人には届かないのです。性の混乱は、多くのウィルスを暴発させ、女性の子宮を汚し、男性の機能をも腐らせます。そういう時代にあって仏教を履き違えた俗論が横行して、けがれ思想の名の下に、大都平城京は焼き払われました。これは軍が火をつけたのかどうかは定かではありません。いずれ、治らぬ疫病にかかった人も同時に生きたまま焼かれたのです。      なぜか官僚や金持ちはそこへは居ません。歴史は繰り返されます。そして京都府加茂郡(慕仁京)へ4年間遷都されました。争いが絶えなかったため、充分な施設も創れぬままでいました。

 

 【天平時代の幕開け平安京】

  
 平安京は、名高い呪術師、安部晴明によって見事に結界の張られた都市です。備考ですが、安部晴明公は聖徳太子と同じ天照一族の人です。結界とは自然界の調和バランスを考え、都の邪気、穢れを祓うための目には見えない技術のことです。サイエンス「科学」と言えば解りやすいです。また天台宗の開祖、最澄が大和大三輪寺から脱却し、京都平安京の最東比叡山に大神神社の御霊を持ち出して安置しています。その頃、弘法大師は、和歌山高野山を建てる前に大和大三輪寺に上がり、遍照院を建てております。またそのすぐ後に、日本で神仏習合を完成させた慶円三輪上人が、大和大三輪寺の寺号を三輪清浄、一掃平等なることを祈願して「平等寺」に改めています。平等寺の印はロシアで言うシャングリラ(理想郷)の印と良く似た形で、丸が三つ重なったものです。日本では一部の知識人がこれを自らの印として自由に使っています。また、この時代の建物も仏像もオリエンタルの影響を多分に受けたものが多いです。
 朝鮮から来たシンプルでスレンダーな渡来仏と対比して、まろやかであり腰が美しくくねっていたり、ふくよか立体的などという印象を受けます。
 京都盆地の中に突如現れたその都は、この世の富を結集してガラスの蓋を閉じてしまったかのような華麗さ艶やかさでありながら、風通りの悪い息苦しい都でした。さることながら、人は都を愛し、全国からは容姿端麗な美女が集められました。そのことが更に京の都の人気を盛り上げました。

 しかし、政権がらみの紛争は、平安という都にあっても、尚も激しく続いていました。ここに初めて登場します菅原道真公。この方は、仕事に熱心であり、人情に篤く、学者肌であり、かつ国の民のことを考えて行動するまさに求められた政治家でした。当然時の天皇からの信望もあつく、右大臣として歴然と名前の知れた大人物です。しかし、藤原氏にとって、これほど大きな壁も滅多にあったものではありませんでした。当然にせよ目の上の大たんこぶであったのです。 
 菅原家からの政権の完全奪取を目論んだ藤原氏は、道真公が天皇に謀反を企てているとのデマをはなはだと垂れ流し、無実の罪を着せられた道真公は、西の果てに島流しされ、悔しさとやりきれなさの獄中で死んでいきました。 
 そのあとの話は日本人の中では有名です。
 ある日稲光と同時に、道真公を大宰府へと左遷へと追いやった張本人の藤原時平の清涼殿に、あろうことか雷によって胸突き刺され、不幸の死を遂げたのです。
 それだけではありません。入鹿を殺害し藤原京を作ったあの時と同様、藤原の子息一族がわけもわからぬ病気にかかって続々と死んでしまったのです。
 これでは、一族の存命に関わると判断し、朝廷直々に天皇が菅原道真公の菩提を弔うために全国に神社を設けました。これが天神さん、天満宮と呼ばれています。

今も、道真公は、学問の神様として、篤く国民の信仰の的となっています。またこの頃日本史に名高い俵藤太「藤原秀郷」が関東にてあの東京の守護神といわれる平将門公を打ち破っています。
 平氏は桓武天皇(支那渡来系)の末裔であり朝廷では総務的な役職に携わっていましたが、この将門公や清盛公は大王の名にふさわしく、坂東貴っての武人でした。
 将門公は秀郷の終生のライバルでもあったのです。また秀郷は、全国に最も多いという苗字、佐藤氏族の主(もと)でもありますから、藤原氏に縁の有る方は是非覚えていてください。

 

【鎌倉の世】

  この時代は日本を説明する上でも重要な事件がありました。それは平家と源氏が存命を掛けて争った一騎打ちの壇ノ浦の合戦です。平家は無敵の水軍を誇り、源氏は無敵の騎馬隊を組んで片や海、片や陸の攻防戦を繰り広げていました。戯曲に有名な平家物語・・・・祇園精舎の鐘の音諸行無常の響きあり
 ここで、平家は幼子であった安徳天皇を最後に滅んでしまうというのですが、安徳天皇は生き延び、実話和歌山市で父君高倉天皇を祭る高倉寺という大きな寺院を立てているのです。
 武名を成して死ぬよりも、隠れても父君の菩提を祈ろうとした青年いくばくの安徳天皇は、例え敗者だとしても、その情けはあの世から現在を照らしているはずです。実際筆者も4年前25歳のある日、今は明治の廃佛の影響で小さく整理された「小庵」とも名のつかぬ小さなあばら屋に導かれており、その中には確かに高倉天皇と安徳天皇の御位牌が二人並んで静かに鎮座していましたのを拝みました。不思議なもので、当時お付き合いさせていただいておりました彼女の姓がまさしく平であり、これには底知れぬ偶然とも思えぬ何かを感じずにいられませんでした。どうか、日本人で平に縁の有る方々、和歌山市高倉寺跡に行って差し上げてください。
 坂東(関東)の鎌倉へ政治の拠点だけ移してしまいました。
 時の執権北条時宗公の兄である北条時頼公は、京都で膨れ上がった財政赤字を、一体どうやって解決するべきかということにあって、遊んで止まない公家たちの一掃を図る事も現実として不可能と見切りをつけて、鎌倉に武家の仏教楽土という一見あい矛盾したユートピアを形成しました。
 しかし、この北条時頼公、以外や以外、日本を名だたる時の僧侶達から壮絶なラブコールを貰った人物でもあります。
 ラブコールとはいえ、それは媚びるというより反対でアンチ北条政権といえるものでした。
 二度の元寇をまともに喰らいました鎌倉幕府、その執権は気性が甚だ激しかったことは言うまでもありません。
 源氏の忠臣を滅ぼし、将軍をも謀殺して承久の乱にては三上皇を島流しにまでした北条政権とは、自らの病理と現実の恐ろしさ、その両方を斬って斬って斬り捲った周到であり臆病な体制でありました。
 だから、赤字で出来もしないのに、家臣たちに所領を使わすなどと、根の無い話をしまし、計画性を持たない幕府は崩壊に向かいました。計画性とは、家臣、人民の意見を聞く耳持ってこそ初めて沸いてくる知恵のことなのです。
 言えば北条家に歯向かう家臣はおらず、独裁体制は見事な裸の王様を育て、家臣が見るものといえば無駄に過ぎてゆく時間と滅び行く幕府の姿だけなのです。実際、当時も日本の経済は破綻寸前であり、台風でも吹いてくれなければ元寇を追い払うことなど到底むりでした。
 ところが、日蓮上人、親鸞上人、道元禅師に寂園禅師、一般の方々に至るまで多くの争事を遠ざけたいと祈る仏道の力が結集してか、はたまた突発的な気候の変化なのか、台風が来て、二度目の元寇は木っ端微塵に海のモズクと消えうせたのです。
 元寇に一番恐れたのは寂園禅師でしょう。

元の恐ろしさを現実に知っている人物の一人であったことが理由です。
 現在で言えば中国福建省から来た寂園禅師というこの高僧は永平寺の二世を決めるにあたって、権力抗争から自ら退き、福井のこの山奥にある巖を選んでなんと18年間単座しました。時代が変わっても人間のすることは何も変わらない。鎌倉時代当時もこのように争いが絶えず、世の悲しみを消しさるがために、心から平和を願い一人で巖に座し続けたその僧を、通りかかった藤原一族の知円らが、寂園禅師に帰依して建立した寺院を宝慶寺といいます。
 宗祖道元禅師の真髄を、宝慶寺の歴代住職が脈々と伝えてきたのです。
 宝慶寺の宝物館には、道元禅師が北条時頼と話し合った記録が文書として残されています。
 これは著者が実際にそこでいて1年過ぎの間の修行中に見かけたものでした。
 その時のエピソードに、道元禅師が北条時頼公にお話をする下りがあります。
 インドのお釈迦様の時代のお話を講じてらっしゃいます。

 道元禅師「いいですか、時頼殿。」
  北条時頼「何でも申せ。」
  「アジャセ王はマカダ国王子でした。父を殺害し、母を牢に幽閉してでも即位しましたが、この悪玉王もさすがに心が痛みました。アジャセ王は6人の大臣を次々と呼んで悩みを訴えましたが、6人は言葉巧みに王に取り入り、王の行為を正当化してなぐさめようとしました。しかし、当然のことながらアジャセ王の心のうちは晴れませんでした。後になり王は、釈迦の教えを受ける機会に恵まれました。」
 ここからは、の想像ですが、「アジャセ王よ、あなたは自分に都合の良い者ばかりを擁護し、批判をしたり、本当に貴方を思って注意してくれる人をないがしろにしてきたでしょう。その結果、あなたにとってイエスマンばかりが増え、民の悩み、国の悩み、はたまたあなた自身王の悩みについて全く助言が聞けなくなった。どうですか、思い当たることは無いですか、時頼殿。

 そう言われて室町時代に入ってから、義堂周信が三代将軍と政治事の話し合いのとき、「永平長老の平氏にすすむる」白衣舎示誡が話題に上ったというから驚きです。つまり、時頼公は身にしみて話を聞いた事になります。平氏とは、北条家のことです。

 

 【南北朝の時代】

 

 南北朝に分かれて天皇たちが争った時代です。後醍醐天皇と崇徳天皇は争い、崇徳天皇は讃岐へ島流しに遭いました。崇徳天皇は指を切り、その血で京都へ還りたいとの嘆願書を書くのですが、それでも願いは叶いませんでした。崇徳天皇は、天皇家を呪いながら死んでいきました。
 「地は天となり、天は地となるであろう。」
 この懸念の通り、以降天皇家(皇族)は日本国の政治をとることが出来なくなりました。

 

 

【室町幕府武士の時代】

 

 ここで改めて武士の説明をします。天皇が外へ出られるときは、護衛が付きます。今で言うところのシークレットサービス、SPとでも申しましょう。ですが、その持者たちの集団が、組織化されてゆきました。元々豪族であった彼ら雇われ者たちの間で権力欲が出てきました。天皇に願い出てはれて侍「さむらい」と名乗り、呼ばれ始めた彼ら武装集団は、朝廷のセキュリティー上の立場を持って徐々に頭角を顕にしてきました。そして、代表者たる足利家は軍事を司る最高職、征夷大将軍の座を手に入れました。3代将軍義満公は、その権威を誇示して金閣寺を造営。栄華を極めました。

  この時代の僧に一休禅師という日本の名僧がいます。一休禅師はまさに一休禅ともいうべき人生をまっしぐらに突き進んだ僧です。室町と言う時代は特に家柄を自慢したり、華やかであることを都では見せびらかすような模様仕事が多かったです。そういう時代ですから、当然僧侶も退廃しておりました。一休禅師はたいへん聡明な方でした。聞くところによれば、天皇陛下のご落胤であられたと言われています。寺の会合に集まった僧侶たちが、自分はどこどこの生まれであるとか、どのくらいの寺に住んでいるとか僧侶にはあるまじき言動を行っていたのをご覧になられ、えらく落胆されました。それから、幼少期を世話になった寺を出、独り禅の旅に出られたとのことで、もう一休禅師が青年僧となられておられた時の話です。
 正月もめでたい日に、事もあろうか竿の上に骸骨のどくろを刺して、京の繁華街をみすぼらしい格好で歩いておられたって言うではないですか。街の商人も舞妓さんも、「あれ、とうとう一休さん狂ってしまわれたか」とばかりに「何故に一休さん、そんなことやってるのです」と尋ねる町の人々。そうしたら、一休禅師がどくろを竿から下ろして、「いつかはこうなる、目でたやのお」と唄われたんです。あんまり奇怪なもんで、街の衆はますます「おかしい」と思ったのですが、確かに死ねば皆平等に骸骨になるよし、しかも眼も腐って無くなるのであるから「めでたい」
 居や々、本当に目出度いのではなくて、駄洒落として目出たい。
 どうせ死ぬものと解っているならば、なんで皆、本気で生きないか。
 もっと、楽しむ。もっと喜ぶ。泣く。叫ぶ。
 本音で一生懸命生きればいいじゃないか、なんでこんな時代にみんな力を合わせないのかという一休さんなりの強烈な人間愛のエンターティンメントだったのです。一休さんのその言葉の意味が、やっと町の人達は解ったようでして、それからはしばらくの間、歌えやどんちゃん、さわげやてんてこりんの大賑わいでありました。中には目の見えない娘さんもおられ、喜んで居たたそうです。そういう辻説法をやってくださる和尚様でしたからでしょうか、ほんとうに現代でもたくさんの人から愛されています。
 しかし、もうひとつ泣かせるのは一休禅師の情(こころ)の部分です。そのどくろの出来事から二十数年経ったとき、住吉大社で偶然その時の女性にめぐり合いになられたといいます。
 運命の深さを感じられた一休禅師はその目の見えない女性と夫婦の契りを交わし、老齢にして人間としての安住の境地、幸せを掴まれました。これこそ、まさに目出度い、目出度い。
 一休禅師は最後には皮肉にも自分が嫌った大寺院というものへ勧請され大僧上となられますが、まさに時代の申し子であったのです。時代は乱れに乱れておりました。室町の4台将軍は、親の栄華を拒むかのように、一人、禅の世界へ没頭していったのです。金閣と対比して全くといって質素な銀閣が作られています。筆者の日本史を教わった頃は、財政難で銀閣にしたと、まるごと嘘を覚えさせられましたが、現実は、父君に疎ましがられていた4台将軍が、だからこそ、そんな父にも捉われない、自分だけの境地を掴もうとして建てたと多くの学者が言っています。
 しかし金に対して銀を作るとは心のどこかで父君への尊敬と、愛されたいという子供なら誰でも親に願うであろう本心が隠されていたと筆者も、そうに違いないです。もう、すでにその頃というは、日本のルネッサンスといいますか、多くの偉人鬼才、はたまた僧も武士までも、世の中にうまれ出てきた時代です。

 

 

 【戦国の世はじまる:男たちの求めた理想郷】

 

安土桃山時代と呼ばれたフロンティア

 

すでに鎌倉、室町の時代を経て全国地方に鎮座している武家が、最も盛んにぶつかり戦い合った時代です。また、貿易が盛んになり、かかえきれない情報の暴発によって経済的なイデオロギーが衝突した文明の幕開けです。また、鉄砲文明がどんどん日本に浸透し、軍隊の中世近代化が行われた大量虐殺という恐ろしい時代の幕開けでもあります。

 信長公が目指した日本

 

足りないものは他国から補う。海洋貿易立国の構想。信長公は、形骸的な地位や名誉よりも、質実を取って国益を優先する方です。早すぎた天才と申し上げても過言ではありません。室町将軍権力からの自立をはなから考えていながら、あえて1568年足利義昭を立てて京都に入り、そしてこともあろう事か、普通は考えられない、義昭公を将軍職に伸し上げたのです。義昭公あるいは朝廷は、信長公に対して副将軍でも何にでもしてあげるから、という一見成り上がりを目指す武将なら断らないだろう褒れを、あざあざと断ってしまっているのです。好きな国をあげようという彼らの賛辞も飲まずに、その代わりとして、和泉堺と近江大津・草津の三箇所への代官所設置を交通・流通・軍事の要所と捉えて要請したと見えます。上洛の後に信長公は日本各所の関所の撤廃を命令。これは今で言うところの、さながら高速道路の料金所の撤廃です。関所が意味するところの規模からは関税局撤廃とでも取ることができます。 
 最初から何てあっけらかんと凄まじい改革をやってのけるのでしょうか。とても豪気な人です。
 関所は当時、幕府・朝廷・貴族・大寺社などにより設置されていました。
 つまりこれだけ多くの関所を通過すると、税金だけでもたいがいな値段になるので、これは物流を阻むものだとして断固として許しませんでした。もし現代でこんなことをやる官僚がいたなら、国民は総出で大喜びするでしょう。

天子様とばかりに奉られるかもわかりません。多くの人々が、信長公を歓迎しました。

 しかし、もうこの時点で、特権商人や不動産屋とも取れる大寺院らは金銭的な大打撃を蒙ったのです。
 それまでの時代は、橋や道路を壊して敵を防ごうとする保守的な方法であったのに、いきなり信長公は、軍事物資の輸送能力とともに軍の機動力を向上させるという大仕事に出たのです。従来のやりかたに反し、道路整備に重きをおきました。信長公は有事に備え、大きな道路を作りました。また、環境エコロジーにもいち早く目覚めた偉人であり、ストレートな道の両端には松と柳が植えられており、夏は木陰にもなり、台風をしのいだりもするわけです。また、空気の良い時代に更に良くなることは言うまでもありません。琵琶湖にも見事な橋をかけ、今で言う道の駅のような休憩所を設けました。
 驚いたことに、今までの話を単に聞いた人であれば、著者であれば、機能重視で安く橋を作ったのだろうと勘違いするのですが、信長公を見くびってはなりますまい。
 凄まじいことは史実、わざわざ遠い若狭湾から材木をとりよせてゴージャスな欄干をつけた本格的な瀬田橋を1575年に完成させたのです。
 日本海に向け、あるいは京都に向け、主要と成る道路も建設しています。
 著者は頭が悪いのでおさらいをします。

 信長公は、�\粘悗鯏映僂靴伸�環境対応道路を作った��ゴージャスな欄干つきの橋を建てた�こ稿擦鮟笋蕕擦拭�
 著者はこれが全て中世既存であった権力という権力をぶっ潰すための準備であったと敏感に察しました。
 
 ��   によって税関で収益を上げていた僧侶や商人が敵になります。
 しかし、彼らは財源だと考えるとどうでしょうか。ただ彼らが信長公に矛先を向けるその理由に、利権があるために、戦は勃発し、憲政的に優位に立つ信長公は暴徒と化した彼ら僧侶や商人を合法的に成敗し彼らの生命と財産を奪い取るという
 だから恐ろしきかな、信長公は頭脳の達人なのです。
 小学校の先生が歴史は学ばねばなりませんと口うるさく生徒さんに言われますが、本当に学ばないといけないことは、年号や年代よりも、史実の内容なのです。
 ��   環境対応道路を作った。
 確かに環境という理由になることでしょう。
しかし、一つ考えてみて欲しいことは、例えばこの本をご覧になられ、かつ日本人である貴方がその場合、戦中戦後まもなくという時期を生きた経験の有る人であれば、松は燃料にもなり、油も取れることは解るはずです。つまり、それを何に使うのかということまで考えないと信長公のトリックは見破ることが出来ません。
 ��  ゴージャスな欄干つきの橋。
 民衆の憩いのために作ったのだと信じたいのですが、この橋自体が琵琶湖内の大量輸送に何らかの役割も果たすのでしょう。
 �� 街道を作った
 なぜV字直角に比叡山をマークするような作りにしなければならなかったか。
逃げ道を完全に断つためなのでしょうか。中世の大権力であった寺院を解体することは、僧兵などを持つそれらの団体が、機能としては、朝廷の言わば外堀であるという事実を鑑みたほうが最もであるように察します。
 信長公もまた、軍人としての存在である前に人間であり、人間であるという大前提の前に、魂において、大きな男性を秘めたお方であったのだと存じ上げます。
 時は戦国。今現代以上に貧困は火急をなし、町は混乱し、信長公の御父君はいつも戦争へ出られておられたので会うことも出来なかったでありましょう。父君の愛情も充分に受けられなかった幼少を鑑みては、強烈な母性とも思える父権の存在に憧れ、「いつかこの地上の地獄をこの俺が救って見せるのだ」と心にお誓いになられてあられたのだろうとお察しいたします。

 偉大なる信長公。信長公は急ぎすぎになられました。なぜ明智光秀氏が、亀岡の帰り磐で引き返し、信長公をお射ちになられたか。もし信長公が徹底して協議によって和睦せしめる心があられたならば、この国、いや、この世界の歴史は嘆く事無く変わっていたのかもしれないです。しかし、あまりにも既存の時代を憎み、未来を夢見て信長公は独りで日本の重荷を背負いすぎました。それほどまでに、怒り心頭されておられました。本物の男、信長公は日本人に覇業の大王のとして代々語り継がれることでありましょう。

 

 【秀吉公が目指した日本】

 

 太閤さんとして、現代に語り継がれる太陽の子、秀吉公。 現大阪城は復元でありにしも、あの壮大な城の有様を見て何か高ぶる思いを募らせる男の人も多いことかと存じ上げます。実はあの本丸があった場所には、天守閣築城なるまでは、石山本願寺という寺が建っていました。宗教と武家、このどちらかが正しいのかという論争は歴史の結果に委ねるとしても、この大阪城の堀の大きさは半端ではありません。著者は以前関西地方にいて、モーターサイクルで大阪を巡回した経験があり、いかにその城が凄いものであるのかは確認済みです。ですが、いかにして秀吉公が太閤となられ、今や人口900万人とも言われる大阪の基礎をお作りになられたのかということに大変興味があります。
 太閤になられたその、工程よりも、その情熱が何であったかということに惹きつけられます。これは、もしや、太閤関白となられてから使われた豊臣という妙字に反応しているのかも知れません。朝廷から太政大臣のポストを得て直ぐに、以前に頂いた藤原姓を一切やめて「豊臣」としています。聖徳太子フリークの私は、聖徳太子と現在呼ばれている謎の多い人物の別名がまさしく豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)であって、おそらく崇高な名を求めるがあまり、秀吉公は聖徳太子にあやかったと鑑みます。朝鮮半島出兵の際、多くの人民の耳を切って持ち帰ったことから豊臣とついたと申される人もおられますが、果たしてどうだったのでしょうか。信長公の信望を一身に集めたこの生真面目な大人物が、一体どのような人物であったかについては全く定かではありません。
 しかしながら、刀狩りをしたり、亡くなる前に難波の夢も夢のまた夢というような事を言われていることを見れば、この人こそは日本史を飾る戦国の三代武将のなかにおいても、一人だけ、まじめに、「天下」を執ると言う気持ちで挑まれた方にちがいあるまいと勝手に納得してしまうのです。

 

 

【1600年天下分け目の戦い。家康皇の目指した日本】

 

徳川家康。この方ほど理解されないで現代に至る覇者は居なかったでしょう。

日本国徳川幕府第十五代将軍徳川慶喜公

日本国徳川幕府第十四代将軍徳川家茂公

日本国徳川幕府第十三代将軍徳川家定公

日本国徳川幕府第十二代将軍徳川家慶公

日本国徳川幕府第十一代将軍徳川家斉公

日本国徳川幕府第 十代将軍徳川家治公

日本国徳川幕府第 九代将軍徳川家重公

日本国徳川幕府第八代将軍 徳川吉宗公

日本国徳川幕府第 七代将軍徳川家継公

日本国徳川幕府第 六代将軍徳川家宣公

日本国徳川幕府第 五代将軍徳川綱吉公

日本国徳川幕府第 四代将軍徳川家綱公

日本国徳川幕府第 三代将軍徳川家光公

日本国徳川幕府第 二代将軍徳川秀忠公

日本国徳川幕府  初代将軍徳川家康公

 

徳川家康公は何と15代も続いた徳川幕府の創設者なのです。今は東照神君と呼ばれ、日光東照宮に祭られたその人。しかし、今ひとつ奇妙なことに気が付きました。日光東照宮の祭神は確かに東照神君徳川家康公。日光東照宮は、山王信仰の中心でもあります。だから、祭神の頂点は、実は家康公では無いのです。では、何かと言われるときに、はじめて最初のあたりでお話いたした男の方が登場します。その方は、秦河勝公です。そう、あのダビデ王の子孫にして秦の始皇帝の子孫の方です。
 歴史は藤原氏が実権を掌握するために、大きく歪められ、現在に至ります。神々(実際の人々)の名前も多く新しく名付けることによって、撹乱を起こし藤原氏は自らの保身を継続して来たに他なりません。
 聖徳太子様から、各人物を点と線で結んでゆきますと、とんでもない事実にたどり着きますが、それは、個人の楽しみとして、日本に住む予定の諸国の方々は参考にしてみてください。
 諸外国の皆様と日本人の繋がりが解るはずです。それは、日本人にとって先祖を辿る時空の旅となることでしょう。
 また、中東の諸国が困っているとき、日本国民は何を助言するべきか、これからどのように付き合い、まさにエネルギー問題を共有し、御互いの資源を出し合い、平和裏に祈りの境地でお付き合いすることが大切だと言うことに気が付くはずです。生きるということは、これは本当に大切なことで、どんな御託より真剣で切実な問題です。

では、生きるためには何でしょうか。お金なのか、安全でしょうか、あれもこれも言ってますと限がなくなってきます。しかし、もっと原点を見つめていかないと、複雑なパラドックスによって大切な自分の見解に目隠しをされてしまいます。人間の原点って、何でしょうか。環境と自然って、一体どうすれば治るのでしょうか。綺麗な空気は一体どこへ行けば手にはいるのでしょう。安全に食べれる食品はどこへ行けば手に入るのでしょうか。身体に害の無いおいしい水は、どこに行けば手に入れることができますでしょうか。 
 お金、が、あれば、なんとでもなる(?)では、持ってない人はどうなるのだろうか。このままで、いいのでしょうか。そろそろ、日本はニギハヤヒが教えてくれた真実に気が付かなければいけない時期なのではありませんか。

「大自然と共に生き、人は共生しよう。」『神道』「和を以って貴しとなす」『仏教』

 誰かのせいにしても始まらないです。世界は最悪の方向に向かって急加速しているのです。
 現在、環境保全の仕事をしている事から、現時点で日本には、世界の環境を守り共存するだけの技術がそなわっていることに気が付きます。宗教、政治、ボランティア団体、それらはいかに美しく宣伝することが出来ても、本当に心で手を合わせ、足並みを揃えないと、生命のギアが入りません。
 日本の先祖は古代文献を通じてこのように囁いてきます。
 「はじめに国に国境はなく、人々は自分に合った土地に住んでいた。また望むところに移って勝手に暮らし、子孫を増やしていった。住んでいる土地が貧しくなれば、他の食事に裕福な土地に争いを挑み攻防し、人は集まり村を作り、狩をしては駆け巡り、日々の暮らしは他者との進駐を追って暮らす攻防です。これが護国と国造りのというものなのです。」

この忌みを考えれば、いかに自分たちが希求する穏やかな世界と現実がかけ離れているかが、一読瞭然として理解できます。エネルギー問題を先に解決しないと、武力を持った人はいつまでもあてなく戦争を繰り返します。ですが、その守るべき資源財産を持つ人々が、まさに精神的に、あるいは他の資源エネルギー捻出を可能としたならば、戦争と言うことに歯止めが利くとは思いませんか。日夜どこと言わずテレビや映画では拳銃や爆弾の映像の繰り返しで、簡単に人が死ぬのを面白おかしく放送しています。しかしそれが、間違いなのだということに気が付かなければ、大変な事になります。

なぜそこまで、人は対立しなければならないのでしょうか。


 国家の名の下に、人間を殺してはいけません。 また、全ての武器は、例えば日本の企業の技術力をもってすれば、全く違う平和な商品に生まれ変わることも可能であり、人を殺すと言うことより、緑を増やし、大気を戻し、水を綺麗にして、おだやかに暮らす基礎(ビジョン)を今、日本人が打ち立てなければ、一体誰がそれをなすというのでしょうか。
 現実、この世に祈りがなければ、この世界はすぐにでも第三次世界大戦に突入していておかしくないのです。その祈りは自らの神を絶対とし、他の神を阻害するものであってはならないのではないでしょうか。宗教を越え、信条を越えた、たった一つの信条、平和というイデオロギー、それを具現化するエネルギーが今すぐに必要です。

現在は戦争を知らない世代の危険な時代です。

筆者は、太平洋戦争の経験者の日本の先人より、日本国がなぜ戦争を行う必要に迫られたかの少しを聞いて育ちました。だからこそ、誤解の無い形で、日本の説明をさせていただきます。

【最後に、日清・日露・第一次世界大戦・支那事変・太平洋戦争戦没者供養のために回向します、こいねがう所は、日本民族先祖代々諸々霊に拝し奉り、菩提円満ならんことを祈り奉りこの本の最終章「この文献のまとめ=話すべき事」とします。】

★世界で誰に手術が必要であれ、平等に最高の施術がなされるように。
★世界人類が、今日もお腹をへらさずに暮らせますように。
★世界人類の家族がなごやかに楽しく長く生きることができますように。

 夢のような幻のような地球のこのスローガンを達成することが可能なのは日本国の技術です。そして、今まさに日本に興味を持ってくださった、貴方や貴女なのです。

 WELCOME TO JAPAN.
 日本へようこそ。

                                               

日本国 国民男性 千田寛仁

謹書

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【地球人類の歴史で考えるべき点と線のはじまり】上記文中のダビデについて知りたい方はどうぞ。

 

さて、宇宙が生まれて137億年、地球が生まれて46億年、地球から月が分離して45億年が経つのだと科学者の偉人は言います。本当に長い時間を生命は引き継いできたのですね。ことに人間のそれぞれ先祖は祖父母、そして両親からあなたや私に至るまで、ひと時も途切れてないことに驚きと感謝をまず隠せはしません。まさに感謝です。

最初世には男性も女性も無く、機能としては男性というのにふさわしいかどうかわからない「F」の存在が神によって与えられました。まだ、細胞分裂によって生物が分派していたころです。そうして、どういうわけか、遺伝子を次の時代へと伝承するミトコンドリアが生物と交じり合ったとき、つまり海が出来たときに、女は生まれ、「M」の存在として世界を命で瞬く間に潤したのです。FとMが交じり合って化学変化を起こし、実に色んな種類の生命体が生まれました。

今、といってもここ何千年は、生命の種が増えたり減ったりしないから大変安定した時期であるといえます。かといえ、絶滅の種があるのは、これは神が与えた人類への試練です。そう、他人事で無いという見地から実直に見て理解するならばです。6500万年前には恐竜が滅んだと言います。そして驚くことに地球上の生命は、2600万年ごとに滅んだり再生したりを繰り返しているといいます。6000年前にはシュメールの文明が開けました。この文明をもたらしたのは、二ビルという星から来た神々だと言われています。聖書ではエロヒムと呼ばれ、イスラエルではネフリム、ヤーヴェと呼ばれ、バビロニアではマルドーグと呼ばれた、伝説の神々です。神々が地球に来るまでは、あのエジプトのピラミッドは乾かしたレンガで造っていたのが、飛来神の到来以降はいわゆる地球には無い石を使って作られました。

文明はアッカドやバビロニア、ユダヤ人を介してローマそして世界へ広がりました。古代のセンムトという学者が、死後を通じてユダヤ人に教えたのは、彼の墓の内部の天井に描かれているオリオン座の三ツ星です。その下にはサーフオリオンの像が描かれています。石室の前には牡牛座のヒアゼス星団が描かれています。また、ソクデトの星、シリウスが描かれています。

注目するべきことは、この絵に彗星のような軌道を持つ天体が描かれているということです。それが、数字の8の字に描かれています。これは、二ビル星の交差することを顕しています。二ビル星の公転周期は3、600年です。面白いことに、地球が二ビル星と遭遇するのは3、600年に一回なのに、二ビル星から地球に遭遇するとなると、それは1年に一回なのだそうです。

筆者にはちと難しいので、頭の良い人は、どうかこの難題を解いてください。ひょっとすると日本童話の浦島太郎や竹取物語が何のことを風刺しているかが分かるかもしれません。

 

また、筆者は共に重大な出来事を皆様と考えてゆかないとなりません。皆様の中には「ポールシフト」と言って解る方もおられると思います。これは、惑星が地球と太陽の間をかすめて行くことによって、地軸がゆがんでしまうと言うまるでSFにでてくるような出来事なのです。ですが、これは現実にこの世界が何度も体験してきたことです。例えば奈良県の飛鳥には、亀石というものがあって、それが現在東を向いているものが西を向いたときに、日本が沈むという言い伝えがありますが、あれは何ら不思議でも嘘ではなくて、ポールシフトによって地球の天地が逆転しているのであるから、東向きが西向きになるということで、まさに過去にもポールシフトが起こっていることを古代人が教えてくれているのです。

皆様は旧約聖書のノアの箱舟のことをご存知ありませんか。また、日本神話の天の岩戸の話をご存知になられておられませんか。もしものために説明しますね。紀元前1682年とも、紀元前2340年とも言われているのではっきりとした年は分かっていないのですが、今の中東、イスラエルにあたる地域で、そのポールシフトの影響が激しく起こりました。地軸のゆがみ然り、太陽の影となって、地球は3日間、あるいは30日の間全くの暗闇に遭いました。多くの人が死に、ユダヤの12氏族はこの恐ろしい出来事を忘れることはありませんでした。その様子は、サンクトペテルブルグ博物館の中に秘蔵されているエルミタージュパピルスに、天と地が逆転した様子として余すことなく描かれています。この時のことを日本神話で天岩戸の物語として伝承しています。記述は後期の偽作であるにせよ、そこで何を象徴し物語っているかに、いかにその夜を生きた人々が恐怖に慄いたかを伺える歴史的伝説です。

それから40日40夜、雨が降り続いて、(6日ともいわれています)水は150日もの間地上を埋め尽くしたのです。このとき、神の声を素直に聞くことが出来たノアと聞いた一族と家畜が前もって用意していた箱舟に乗って救われました。船の寸法は縦150M、横40Mとあり、キリスト教の友人によると、それは今トルコで眠っているといいます。さらに世界にはノアの一族の生き残りの伝承が随所に見られ、亜細亜でも、大きい船を現す際はこの通り、8つの口と現すことから、助かった人の子孫が多く世界に伝播してゆくのが垣間見ることができます勿論、他の地域の人も生き残った人はいるのかもしれませんが、中東地域では大打撃であったに違いないです。いずれ、このポールシフトがいかに怖いかということは、お分かりいただけたはずです。過去の統計から言うと、陽が二つに見えたとき、地球はまた大変なことになるので、最低でも2ヶ月から3ヶ月分の食料と水は用意すると良いです。

 されど、恐れて飛び回る必要はありません。このことは、ホピ族やネイティブアメリカンは古くから知っています。また、わざわざ筆者のような素人から聞かなくとも、神との交信ができる人は、いつでもどこが安全なのかわかるはずです。

 自分の鼻で経験をもとに情報をかぎわけて吟味してみることは大切なことですね。それからノアの子孫は東に移り、シナルの地に平野を見つけて天まで突き抜けるような大きな塔を作りましたが、この人類の計画は途中で神の手によって中断せざるを得なくなりました。それでも場所を変えて人類は腐敗と堕落を繰り返したため、遂に神はソドムの町とゴモラの町へ硫黄と火を降らせて、そこにいた人々を滅亡させました。

 この後、アブラム(後にアブラハムと呼ばれます)は弟のロトとカナンの地にやってきて天幕(祭神)を張り祈ったところ、神はカナンの全てをアブラハムに与えると指示を下されました。神はアブラハムの忠誠を大変な方法で試されますが、アブラハムは神への信頼と忠誠を貫いたので、神は遂に全世界を地上で統治する権限を彼にあたえたのでした。アブラハムの子供のイサクの子供、つまり孫のヤコブもまた神を敬いました。ヤコブはまた人の支持も得て、イスラエルと名乗ることとなりました。イスラエルとは日本語で「神の祝福を得た」という意味です。そしてイスラエルに12の支族が出来上がります。ヤコブの子ヨセフは聡明であったため、兄弟達からねたまれ、兄弟達の策略によって商人に売られ、エジプトへ連れ去られてしまいました。ヨセフの聡明さは、エジプトのパロ(ファラオ=王)にも叶い、エジプトの王はヨセフをエジプト全国の祭司として崇めました。時は流れ、ヨセフもその兄弟も皆いなくなりました。イスラエルの子供たちはたくさん増え続けました。

「ヨセフのことを知らない」新しい王が、イスラエルの人々の聡明さと強さを恐怖して、エジプトの助産婦たちに、女子は生ませ、男子は殺せと命じましたが、助産婦達は神を恐れ、男子を生かしました。ヘブライ人の子供は、パピルスで編んだ籠に入れられ、ナイル川に流されました。パロに見つかったら只では置かないのでお母さんの苦肉の策でした。その乳児を、なんとパロの娘が偶然に発見し、モーゼと名付けて育てました。モーゼはやはりノアより先祖代々の血を継いで居ます。つまり極度の正義漢なのです。エジプト人がヘブライ人を酷くこき使っていたのを痛く思い、パロの皇子であるのにも関わらず、エジプト人を打ち殺してしまいました。またヘブライ人同志で争っているのをみかけたならば、争ってはいけないと注意するのですが、逆恨みされ、「エジプト人を殺したように私も殺すのか。」と叱咤されました。

パロはこのことを聞いて、モーゼの素性を検めて知り、モーゼを殺そうとします。モーゼはエジプトを逃れました。この時代にモーゼは助けた集落の娘と結婚しています。一方エジプトのパロは死に、奴隷となっていたヘブライ人たちは苦役のゆえに、遂に自分達の始祖アブラハムや神のことについて思い出し始めました。またその一方でモーゼもアブラハム神、イサク神、ヤコブ神、つまりモーゼの先祖の意思を聞きました。

 「私はエジプトに貴方を遣わせてイスラエルの民をエジプトから導き出そう。」そう、誓いました。

神はモーゼに言われました。

「イスラエルの人々に言いなさい。私は在って有るものの使いだと。」

神はパロエジプトに対して10の災いを与えました。これはエジプトの国が運営できなくなるぐらいの大打撃でした。いや、それ以上です。エジプトで人が生きて行けなくなるほどの事態なのです。エジプト人はさすがにこれは太刀打ちできない、神の業であることを知り、イスラエル人の解放を余儀なくされてしまいました。そして、退職金ともいえる、選別に金銀を奪取したイスラエル人は、次々とモーゼに付いてゆきました。その報告を受けて激怒したパロは、自ら戦車を率いてエジプトの全軍を結集してモーゼを討伐に向かいました。そして、パロの軍勢は遂にモーゼの一団を追い込みました。ところが、モーゼらイスラエルの民は神から祝福され、紅海を渡る事ができたのです。そうです、あのあまりに有名な紅海の奇蹟がまさにここに起こったのです。追ってきたエジプト人は、紅海を渡る事が出来ませんでした。エジプト全軍がここで海に没しました。イスラエルの人々は神を恐れ、モーゼを信じました。しかし、これからが大変です。モーゼはどうやってこの人々をまとめていったらいいか本当に考えました。それはもはや大いなる治安を維持する目的が多分にありました。そこでモーゼは神の意思に従って、シナイ山に一人登って行かれました。

そこで三日目の朝、遂に答えが出ました。

神の立法は次のことを言い、十戒といいます。

1、        ヤーヴェ以外を神としてはいけないです。

2、        偶像を造り祭ってはいけないです。

3、        神の名を乱に唱えてはいけません。

4、        6日の間働いて7日目を聖なる休み日としなさい。

5、        父と母を敬いなさい。

6、        人を殺してはいけません。生命を大切にしなさい。

7、        乱らな性行為に及んではなりません。

8、        盗みをしてはいけません。

9、        嘘をついてはいけません。

10、     すべての他人のものを貪ってはいけません。

 

神はイスラエルの民がいかなる偶像も崇拝しないようにとモーゼに申し使わされました。モーゼはこの意思を聞いて、下に居るイスラエルの民のことを心配されました。ところが、心配は的中し、心無い一部の民が神とモーゼの愛情に泥を塗るような行為に出ていたのです。イスラエルの民が作った小牛の金像を、他のイスラエル民がありがたみ、祭り、踊り、犠牲をささげはじめたのです。モーゼはこれを見て、神と共に激怒しました。つまり、偶像を祭り真実から心を偽証するこれこそが人類の過ちであり、早急にこれらの行いを見たモーゼは神の真意、『十戒』を二枚の石板に刻んだのです。

 

ここで、イスラエルの王や預言者についてお話します。

まず、モーゼからヨシュアまでは、直接神の命によって集団をまとめていました。次にあまりにも人口が増えたので、集団が集団で集団をまとめてゆきました。この頃が紀元前1300年代だと伝わります。五士師の長であるサムソンが5人の族長として集団の治安を維持し、政策を行っておりました。その後サウルの出現によってイスラエル王国が勃興し、サウルの部下であったダビデが二代王として立君しました。このダビデという人物はユダヤ民族の象徴、六母星によく例えられています。ベツレヘムで生まれた彼は実際に勇敢であり、驕りある者を許さず、凛として民衆の英雄でした。事実ダビデ王はモーゼとともに偉大な人です。三代王ソロモンは頭が良すぎ、優しかったのですが、贅沢を極めすぎたために、結局民衆が苦しみ、不信や反感を一身に受けて晩年は寂しい境遇であったといいます。

 アッシリアも紀元前928年にはイスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国の二国に分かれました。紀元前600年頃、南ユダ王国を滅ぼしたアッシリアもまた滅びました。このとき、10部族は離散したといわれています。同じくリーハイは、イエルサレムより今のアメリカ大陸へ移住しました。リーハイの第四子で末子のニーファイと長兄レーマンが居ました。1000年の後、ニーファイの一族はレーマンの一族によって滅ぼされます。紀元前の先住民ヤレド、リーハイの子ニーファイの一族ニーファイ、リーハイの子レーマンの一族ネイティブアメリカン、そして近代移民してきた白人と黒人のうち、ヤレドとニーファイは現在見当たりません。しかし、民族が完全に滅ぶなどと信じがたいので、その血筋は今もアメリカや世界にあるものであると考えています。

 かつて我ら日本人が戦った相手であるアメリカ人が住むアメリカ大陸には、すでに6500万年前には、日本アイヌモンゴロイドが住んでいたのです。オーストラリアに到っては、日本と全く同じ縄文土器が出てきています。沖縄に伝わるミライカナイ伝説は、古代にもあった、これから地球に起こる陸地の浮き沈みを予告しています。与那国のタテガミ岩の近くには、火星にもあるスフウィンクスの顔が沈んでいます。そして、全く同じものが、オリオン座を眺めるように、たくさんあるのです。いずれ、エジプトのスフウィンクスの右足の下を考古学者かNASAが掘り起こすときがくるでしょう。そのとき、なぜ、我ら地球人が作られたか。どこから来たのか、そして、これからどのように、環境汚染災害や戦争の困難を乗り越えてゆくべきかが、解るような、気がするのです。そして、現日本国がなぜ皇国といわれ、世界全ての起源と学者らが話す理由も、解るはずです。

 

 古代の問題と今の問題を照らし合わせて、どうぞ自分の問題として本文を御読みください。


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